1400年ぶりのリバイバル?!「蘇」とは?

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今、全世界ではコロナが猛威を振るい、私たちはひたすら色々なものに気を付けなければならない日々が続いている。

そんな中、どうやら「蘇」が流行っているという。

まさか、はるか昔に朝鮮から伝わったものが、令和のこの時代に取り沙汰されるとは思ってもみなかった。


では、「蘇(そ)」とはどのようなものだろうか?

日本では、奈良時代から平安時代にかけて牛乳が盛んに生産されている。天皇や皇族など、高貴な特権階級の人たちは1日に5.7Lも飲んでいたという。

孝徳天皇が朝鮮半島からの渡来人が絞ったミルクを飲んだという記録もある。ミルクを絞り、蘇を作る技術を古代日本に伝えたのは、帰化後の姓を和薬使王(やまとのくすしおみ)と名乗る一族で、その渡来は鉄明朝23年(562)のことである。

文武朝4年(700)になると、諸国の農民にも乳製品の製造技術が伝授され、諸国に蘇を作り、貢納することが命じられている。長屋王家でも、農民が搬入したミルクを「蘇」に加工させているので長屋王もミルクを飲み、「蘇」を賞味していたことは明らかである。ただ、もちろんこれは超高級品で、作っている農民の口に入ることはなかった。

この頃の牛の体格は今の乳牛種であるホルスタインのように泌乳(ひにゅう)用に品種改良された牛ではなく、身体は現在の和牛よりさらに小さい。そもそも牛乳は母牛が格子を育てるために必要なものであり、人間のものではない。子牛が飲んだ余乳を利用することになるので搾乳量は極めて少ない。

それを一昼夜以上、ひたすら地道にコトコトと弱火で小さな塊になるまで煮詰めていく。今でいうチーズの出来上がりだ。これに蜂蜜を混ぜ込んだり、かけたりして食べられていた。

効能はというと万病に効く、不老長寿になるとのことだったらしい。特に不老長寿の薬、として特権階級の貴族の間で流行っていた。

ところが、平安時代中期以降になると生産されなくなり、再度脚光を浴びるのは江戸中期、8代将軍吉宗の頃。

吉宗は軍事力強化のため西洋の馬を輸入した。日本の馬が小型で足が遅いのに比べ、サラブレッドやアラブ種は大型で足が速かったからだ。その馬の治療に牛乳やバターが必要になった。

そこで吉宗は、享保12年(1727)、オランダに依頼してインド産の乳牛3頭を輸入する。その牛は安房国(現・千葉県)にある幕府の御用牧場「嶺岡」牧場で飼育された。

64年後の寛政4年(1792)には70頭まで増えたため、11代将軍家斉はこの牛から搾る牛乳の利用を促進するため医師の桃井桃庵(ももいとうあん)に『白牛酪考(はくぎゅうらくこう)』という本を書かせた。

これは一般消費者にも広く伝えられ、民間の間にも牛乳が知られていく。

ただ、町人たちからすると、農耕に使用する牛の乳を飲む、というだけで「うげぇ」という反応でしかなかった。

この時、「蘇」をベースとした「酪(らく)」というものが誕生する。

「蘇」はひたすらに牛乳を煮詰めて固め、それに蜂蜜を混ぜたりそのまま食べたりするものだったのに対し、「酪」は牛乳に砂糖を加えて煮詰めてから乾燥させたものだった。削って食べたりお湯に溶かして飲んでいた。

牛乳を煮詰めた「酪」の効能はタンパク質・ビタミンB類・ビタミンE、それに強精作用の強いミネラル亜鉛を含む。腎虚・労咳・産後の虚弱・大腸の閉塞・老衰などからくる色々な症状に効果があると当時の書物に書かれている。

その結果なのか、どうかは分からないが家斉は在職51年、側室40人、生まれた子供55人という記録も残している。

ちなみに家斉は鰻も大好物だった。



地味すぎる作業、刺激的な感動のある味ではないけれど、時間つぶし、牛乳大量消費でトライしてみるのもいいかもしれない。


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