あまのじゃく(とはいえ当然の)
「高齢の義父をなるべく近くで見守れるように」という理由で、私たち夫婦は愛知に引っ越してきている。
引っ越しに伴い、夫婦揃って転職。義実家から近いところに賃貸を借りた。
この私たち夫婦の行動を「優しい」と表現してくれる人が周囲にはちらほらいる。もちろんそれは悪い言葉ではないのだが、私はその言葉にムズっとする。
子供に対して穏やかな声掛けをするお母さんに対して「優しいね」と言うことはあっても、子育てという行為そのものにわざわざ「子供を育てるなんて優しいね」と声をかける人は少ないんじゃないかと思う。
わざわざ言葉にしないのは「親が子育てするのは当たり前だから」だろう。
(その"当たり前"という価値観に苦しめられる母親たちがたくさんいることは一旦置いておいて)
私だって「当たり前だ」と思われたい。
私は介護職の経験があり、介護の資格を取るなかで障害者や高齢者の人権についての授業を受けている。
「障害者や高齢者が排除されず、萎縮せずに生活できるように」という私の考えは【優しさ】や【思いやり】ではない。
当事者が声を上げなければ、すっかり黙殺してしまう社会へのカウンターだ。
介護の実態を何も知らない人の中には、
「自分は家族にも社会にも迷惑かけません!1人で生活できなくなったらすぐに老人ホームに入ります!」と言うような人がいるが、政府が現在進行形で推進しているのは在宅介護・医療だ。
為政者の立場に立って、「自分はわかってる側」としてイキりたいのであれば、どれだけみじめでも、どれだけ周囲の人に迷惑をかけたとしても、老後も最後まで自宅で生活するのが筋だろう。
(そういう人たちの次のセリフは"安楽死が合法になれば安楽死するもん!"だろうな、と容易に予想できる。)
"イキり"とは別として、義父には住みなれた自宅で生活してほしいと思う。
厳密にいうと「自宅で生活する義父を支える夫に、私はついていきたい」
私の今の行動が「優しい人」というイメージに丸め込まれることなく「人々に共有されたミッションを当然にこなしている1人」として認識してもらえたら、1番嬉しいんだけどなあ〜と思う。
これに関しては「当たり前と思われちゃ困る」と思う人もいるだろうし、自分自身があとあと「優しい」という言葉に救われる時がもしかしたら来るかもしれないので、最近浮かんだちょっとした気持ちとして、ここに残しておく。
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