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歌詞の世界:ジョニィへの伝言(はとだ)

日常のなかで、ふと、「あぁ、これは愛かもしれないなぁ」と、自分のなかの愛をみつける瞬間がある。

それはいろいろな瞬間に思うけど、たとえば、会いにいくとき。待つとき。その時間を尊く感じたり、ドキドキわくわくしたり、胸が痛むくらい切なさに包まれたり。そんなときに「これって愛なのだなぁ」と思う。

終電後、急に会いたくなって、タクシーをつかまえ、深夜の甲州街道を走っているとき
体がほてるのを感じながら、返信を待っているとき
会社を早退し、バレンタインのチョコを持って、イルカのイルカくんに会いにいっているとき
ギュウギュウのライブハウスで、汗だくになりながら開演を待っているとき

愛の対象もさまざまだ。味わうように、静かに、愛の存在を感じる。

◆◆◆

ペドロ&カプリシャスの「ジョニィへの伝言」という大好きな曲がある。

この曲は、愛する人を“待ち”、その後旅立つときの「伝言」が紡がれている。「愛してる」という言葉は出てこないが、存分に愛を感じる1曲だ。

「ジョニィへの伝言」は、ジャズ、フォーク、ラテンなどを取り入れたグループ・ペドロ&カプリシャスが1973年にリリースした代表曲。2代目ボーカル・高橋真梨子さん(当時:高橋まり)のレコードデビューとなった曲で、昭和を代表する作詞家・阿久悠さんが、生前に「何千曲と手がけた作品のなかで、いちばん好きな曲」と語っている。

この記事では、サウンドや歌声の雰囲気、歌詞で描かれている「伝言」の内容からどんなストーリーなのか、イメージを膨らませていきたいと思う。
(個人の自由すぎる見解なので、決して正解ではありません)

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(歌詞はコチラ


ここは、どんな場所なのだろう。

どうやら、日本ではない風景だ。西部劇の舞台のような、アメリカ西部あたりのノスタルジックな雰囲気かな? お酒を出す店なので、その町の小さなバーなのかもしれない。

この曲は、こんな言葉から世界がはじまっていく。

ジョニイが来たなら 伝えてよ
二時間待ってたと

主人公の女性は、ジョニィに会いにいった。

しかし、彼は来なかった。

ふたりは会う約束をしていたのだろうか? していなかったのだろうか。

彼女とジョニィはかつて愛し合っていた。しかし、その愛が終わったことを確信した瞬間なのだろう。

そして、店で働く友達に伝言を頼んだ。
「二時間待ってた と」

このメロディは「に・じ・か・ん~」と、ひと文字ずつゆっくり音が高くなり、曲のなかで大きな盛り上がりを聴かせる場所だ。

待っているあいだ、彼女はどんな想いを巡らせたのだろう。
別れの言葉を考えていたのかもしれない。もう一度やりなおそうって切り出したかったのかも? しれない。

この世界には、電話もメールもない。
時計の針ばかり見てしまう。“ギィ”って入口の扉が開くたびに顔を上げる。そこにあるのは、ジョニィとは異なるシルエット。溜息を飲み込む。

来ると信じていたのか。来ないと諦めながらも待っていたのか。
どちらにしろ愛がないと待てない。彼女が待っていた2時間、1時間、1分、1秒を思うと、胸がはりさけそうになる。

そして考える。「2時間待ってた」と伝言を頼んだのは、なぜか?

「2時間も待つほど、会いたかったの」という気持ちかもしれない。
でも、もしかしたら4時間、6時間……ともっと長く待っていた可能性もある。友達が口を滑らせないように、「2時間」くらいでおさめたのかも。

2時間であろうと、何時間であろうと「待っていた」事実は伝えたかった。
待つ理由は「あなたに会いたい」という強い気持ちにほかならない。

「2時間待ってた」の意味は、「愛してる」なのだと、わたしは思う。

わりと元気よく 出て行ったよと
お酒のついでに 話してよ

「愛してる。会いたかったの。……でも、心配しないで。わたしは元気だから」。そんな彼女の想いを、痛いほど感じる。


高橋真梨子さんのビブラートの効いた伸びやかな歌声は、少しハスキーでカラリとした軽やかさもある。そこに、ねっとりした執念は感じさせない。

わたしは大丈夫
もとの踊り子で また稼げるわ

もともと踊り子だった彼女は、仕事を捨て、ジョニィが住むこの町に転がり込んできた。しかしジョニィと別れ、また踊り子に戻ろうとしている。
(女性が「わたしは大丈夫」と伝えるときは、そうじゃない場合もある)

今度のバスで行く 西でも東でも
気がつけば さびしげな町ね
この町は

ジョニィは来なかった。そして、旅立ちの決意へ。

気がつけば、この町はさびしい。それは、彼女のこころ模様そのもの。
もしかしたら、もともとさびしい町だったのかもしれない。でも、一緒に過ごした日々でさびしいと感じなかった。

あなたが住む町にやってきてから、こころはいつもバラ色だったわ。だから華やかな町に見えたのね。でも、こんなにさびしい町だったなんてね。
「気がつけば」というフレーズから、彼女の心情をこのように察する。

バスはどこへ向かうのだろうか。
西でも東でも。そう、目的地は決まっていない。踊り子として働く場所も、住む場所も、何も決まっていない。彼女には不安もあったはず。でもジョニィには「また稼げるわ」って、陽気に伝えたい。

どこへ行くかも決まっていない。
でも、覚悟は決めようとしている。

サイは投げられた もう出かけるわ
わたしはわたしの道を行く

行き先が西であろうと東であろうと、わかっているのは「わたしの道を行く」ということ。とくに曲の後半は、凛とした強さもあり、清々しくメロディが胸に響いてくる。

ジョニィを綺麗さっぱり忘れて、想いを捨てて歩みはじめる、というわけではなさそうに感じる。きっと、こころにはジョニィへの愛が残っている。ジョニィを待つあいだ、この町で過ごした日々を思い出していた。愛している。会いたかった。切なさで胸がいっぱいだ。それでも「わたしの道を行く」と覚悟を決めた瞬間なのでは。

わたしは、彼女の胸に残る「愛」と、あたらしい人生への「決断」をこころから肯定する。


最後は、この歌詞で締めくくられる。

友だちなら そこのところ
うまく伝えて 
うまく伝えて

ジョニィが、わたしのことを心配しないように。ジョニィもあたらしい人生を歩めるように。友達には「うまく伝えて」と。
自分の決意で締めくくるのではなく、伝言を頼んだ友達への言葉が最後に据えられており、その余韻を深いものとしている。


リリースから47年。時代が変わっても、人間の本質的な部分は変わらない。この曲は、いまもわたしの胸に響いてくる。愛にあふれる名曲だ。


会いにいくこと。待つこと。
そこで芽生えた気持ちから、愛を見つけることがある。


あなたは、どんなときに愛を感じますか?


執筆者:はとだ
何かを楽しく編集しながら生きている人。音楽雑誌・フリーマガジン・写真集などの編集や、Webメディアの編集長などを経て、現在はフリー編集者。
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自己紹介的なnote

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