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クーピーとアイデンティティ

自分には、「人と違うこと」がかなり重要なことである。服も、メイクも、持ち物も、趣味も、好きなアイドルも、好きな本も、意見も、考え方も、こだわりも、

そのきっかけとなったのが、転校の経験かもしれないとふと気付いた。

小学生の時、クラスのみんなが色鉛筆を使っている中で、私一人だけがクーピーを使っていた。学用品は入学時に学校で揃えて一式買うのが普通だろう。私は転校をしたので、みんなと違う持ち物を持っていた。クーピーもその一つだった。他の文具類は、多少色が違ったりメーカーが違ったり、その程度の違いだったように思うが、クーピーと色鉛筆は明らかに機能も違った。
クーピーはどちらかというとクレヨンにも近い書き心地や形状をしている。色鉛筆との違いは、削らなくていいことと、それから大事なのが専用の消しゴムがついていたことだ。それにまつわって、様々な記憶が残っている。

何か、絵を描くことがある。
みんな色鉛筆を出す。
私はクーピー。

あれ、あの子色鉛筆じゃない。クレヨン?クレヨンじゃなくて、色鉛筆を使うんだよ。
え、でもこれはクレヨンじゃないよ。色鉛筆は持ってないからこれでいいと思う。
ああ、これはクーピーだね、クレヨンじゃないからこれでいいんだよ。と先生。
みんな物珍しそうに見る、私のクーピー。注目を集めて、転校生はちょっと委縮しつつも変な快感も持ちながら。

クーピーはクレヨンみたいな見た目だけど、クレヨンよりスマートで、色鉛筆とクレヨンの中間のような書き味。みんなは、途中で色鉛筆を削ったりする。私はその必要がない、だってクーピーだから。たまに、先をとがらせて細い線を描きたいときは削る。でも、使うのはほとんど色塗りのときだけだったし、細い線を描く必要はない。けれどみんなは、色を塗るのにも芯がすり減ったら色鉛筆を削らなくてはならない。面倒くさい。
いいなー、クーピー。
いいでしょ。
また、色鉛筆は鉛筆なのに、黒い鉛筆と違って消しゴムで消せない。みんなの色鉛筆には、消しゴムがなかった(もしくはあったけどすごく使えないものだった?)。私のクーピーには、水色のちょっと変わった消しゴムがついていた。それでこすればきれいに色が消える。私のクーピーは恐れを知らない。みんな色鉛筆の色は消しづらいから間違えたらそれは失敗だけど、私は間違えても修正できる。それでみんな、わたしの水色の消しゴムを羨ましがった。
あるとき、色鉛筆に私のクーピー用消しゴムを使ってみたら、色鉛筆でもきれいに色が消えることが分かった。それで、みんな私の消しゴムを借りるようになった。
消しゴム貸して。
いいよ。
得意顔。
私の消しゴムすごいでしょ。
うん、これすごい。
優越感。特別感。
しかし、次第に面白がる子も出てきた。水色の消しゴムは、普通の消しゴムとちょっと違った。少し硬い。消しカスも水色で、一直線に消すとその通りに水色の消しカスの線が残る。それが面白かったのだろう。私の消しゴムを使って、遊び始める子がいた。まっさらな机に、水色の消しカスの線で絵を描き始めた。
最初はニコニコして見ていた。自分も少し面白かった。でも、無駄遣いされた消しゴムがどんどん短くなっていった。悲しい気持ちになって、もうやめてといった。不機嫌な声色。それからもう、消しゴムを友達に貸すのはやめた。
貸して。
だめ、自分の消しゴム使って。
だって消えないんだもん。
短くなっちゃうからいやだ。
でも貸してよ、お願い。
どうしても聞かない子には、少しだけね、と十分言ってから貸してあげた。

人と違うこと。優位性、特別感、自慢感。しかし同時に、違和感、不満感、違うがゆえに体験せざるを得なかった悲しい気持ち。そして、それを知ったあとで、人と違うこととうまく付き合っていくそのプロセスと心境。今まで私はこれら矛盾した要素を全て抱えてきた気がする、そしてその原体験はクーピーのような気がする。
生きづらさ。今抱えるその重大事の構図が、幼いころのクーピーにまつわる経験の構図とぴったり重なる。こんなにも情景や気持ちをはっきり覚えている、きっと印象的で私の内面にとって重要なものを残した経験だったのだ。

本当に小さかった頃は、みんなと同じになりたくて、母に「○○ちゃんみたいな髪型にして!」「みんなと同じこういうものが欲しい」とかよく言っていた記憶がある。
今は真逆で、できるだけ人と違う自分でいようとしている。人との差異の、快感と不快感と、その両方を嘗めながら、きっとこの先も水色の消しゴムを胸に秘めて生きていく。

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