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やりたいことは、なくてもいい。

幼稚園の頃から「将来やりたいことは何?」と聞かれ、就職活動では「弊社でやりたいことはなんですか?」と聞かれる。

そんなにみんな、自信を持って言える「やりたいこと」って持ってるのかな...。

むしろ、「やりたいこと」を問われるあまり、「やりたいことが見つからないんです」「やりたいことを仕事にしたい!」と答えの出ない迷路に迷い込んでいる人が多いんじゃないか。そんな風に感じます。

それに、「やりたいこと」を探すあまり、目の前のことに集中できなくなるのも本末転倒で。

そうなるくらいなら、「やりたいこと」はなくてもいいんじゃないか。その代わりに、「ありたい自分」を考えてみるのはどうでしょうか。

「やりたいこと」に踊らされた20代のぼく

ぼく自身、「やりたいことが見つからない」と迷走していた一人です。

「やりたいこと」という明確な意思を持って大学へ進学した同期を羨ましく見ていました。就職活動では「やりたいことが必要なんだ!」と信じ、「やりたいことは何か?」をとにかく考える日々でした。

新卒では製薬メーカーに入社したのですが、面接の場で伝えたのは「医療費の逼迫を防ぎたい!」ということ。

国の医療費が年々増加していること。増加の一途をたどれば財政が破綻しかねないこと。生活習慣病の割合が高いこと。生活習慣が変われば医療費も抑制できるんじゃないか。

そう考え、「薬の提供と治療や疾患の普及啓発をやりたい。仕組みや根底の意識改革をやりたいんだ」と考えました。(おぼろげな記憶ですが)

ただ、「やりたいこと」に向かって大学生活を過ごしたわけではないぼくは、ついさっき生まれた「やりたいこと」を裏付けるものを何も持っていませんでした。

今から行動するしかない!と、「やりたいこと」を裏付けるように、就職活動のうちから医師やメーカー社員が参加するような研究会へも自費で参加したりしました。

こうして、社会人のスタートラインに立つことができたのです。

...ここから破竹の勢いで成果を出していけばカッコいいのですが、結果はドヤ顔で語れるものではありませんでした。

就職活動のためにつくった「やりたいこと」は、ぼく自身を突き動かすものでは全くなかったのです。

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配属された部署に、同期が一人いました。

「こんなことがやりたいんだよね」と話すぼくに対して彼女は、「わたしは、目の前の人の助けになれたらいいかな」と言ってました。

「へ〜」と返す内心は「目線が低いなあ」なんて思っていましたが、(ほんと張り倒したい自分)結果を出していたのはいつも、彼女の方でした。

ぼくはと言えば、遠くのぼんやりした「やりたいこと」の影に隠れて、目の前の「できないこと」の言い訳にしていました。「自分がやりたいことは、そうじゃないんだ」と。かといって「やりたいこと」に向けて何か努力をしているか?というと、自信を持って「はい!」とは言えない状態。ただ、グダグダしてました。(思い返すと今にも隠れたくなるほど恥ずかしいな...)

ハリボテの「やりたいこと」に隠れて、目の前のやりたくないこと・できないことから逃げていただけだ、と。ぼく自身の「やりたいこと」は、自分にとって困難な状況を前に、足を一歩前へ突き動かすものではありませんでした

長い一人反省会ですが、もう少しだけ。

それからも「やりたいこと」探しは続いていて。

「動画で社会課題解決を前進させる」とか「地方の教育を変えたい」と、明確な意思を持って目の前の仕事に向き合っている人を横目に、「やりたいこと」を明確に言えない自分。

「フジヨシって、何がやりたいの?」という質問にうまく答えられない自分が情けなく、その状態が人間として不完全みたいで、大きなコンプレックスの一つでした。

決定的だったのは、「経営者という生き方」との出会いでした。

採用や人事サービスに関連して、中小企業の経営者の方々とお仕事をご一緒する機会が多くありました。

「こんな商品をつくりたいんだ!」と会社を立ち上げた創業社長や「もっとこの価値を伝えたいんですよ」と社内外に変革を起こしていく二代目、三代目の社長。

組織運営では分かりやすく「全員が賛成」ということはあまりなくて、どっちに進んでも誰かしら反発があるもの。評価制度の改定なんかは特に。(進め方によって反発を抑えたり力に変えることもありますが)

49対51の白黒つけられないグレー案件ばかりで吐きそうな状況も、意思を持って決断し、動いていく。損得だけで考えれば明らかに「損」が多そうな生き方なのに、何だか楽しそうにしている人たちと出会いまして。

そこで感じたのは、自分をここまで突き動かす「やりたいこと」は無いなあということでした。

「ありたい自分」に気づく

それまでのぼくは、経営者といえば「その資格がある人」がなるもので、どこか遠い存在だったこともあり、ちょっと極端ですけど、感情の伴わない機械みたいな存在として見てました。

ただ、それは全くの虚像で、人が辞めれば悲しんでいるし、方針が社員に伝わらないと悩んでいるし、人が増えて距離が出来たと寂しがっている

めっちゃ人間じゃんと気づいたときに、「あ、この人たちの力になりたいな」と思ったんですね。自分に無いものを持っている憧れと、純粋に応援したい気持ちと、やりたいことはなくても力になることはできるかもしれないという期待と。

そう気づいてから、仕事で、ちょっと困難なことに対しても、自分の足にしっかりと体重が乗っかっている感覚がありました。

「やりたいこと」が見つかったというよりも、「この人たちの力になれる自分でありたい」と。「ありたい自分」に気づけたからかな、と思います。

ありたい自分というのは、

・目の前の人の力になれていると実感できること
・介在することで1ミリでも前に進めている実感があること
・見ないふりをして通り過ごさないこと
・「自分の管轄じゃない」と線引をしないこと

....みたいな感じです。1日が終わったときに「今日は微妙だったな〜〜」と思いたくない。自分を嫌いにならないために、小さな約束を守り続けたい。遠くの「やりたいこと」に近づいていくことよりも、「こうありたい」という自分の大事にしたいことが、1日1日、1つ1つの仕事で実現できているか。それが自分にとって、腹に力の入る指針になっています。

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「目の前の人の助けになれたらいいかな」と言ったあのときの同期と同じことを、自分も思うようになってました。

「やりたいこと」はあってもいいし、ハリボテなら無くてもいい。前に進もうとする足にしっかりと自分の体重が乗っかるかどうかが、大事なんじゃないかなと思います。

「やりたいこと」は探そうとすると案外見つからなくて、時間を浪費しがち。そうなるくらいなら方針転換して、「自分って何を大事にしたいんだっけ?」「どんな状態のときに一番力が入るっけ?」と、現在の自分を素直に見つめ直すほうが、腹に力の入る何かが見つかるんじゃないかな。

マンガ家育成や中退予防事業などに取り組むNEWVERYを創業した山本さんは、著書でこんなことを言っていました。

与える仕事でありながら、すべてが満ち足りる仕事。
それが社会起業家だと僕は思う。

やりたいことがないヤツは社会起業家になれ(山本 繁 著) 

やりたいことも、夢も、希望もない。将来が見えず、毎日泣きたいような気分だったーーと言う山本さん。「やりたいことが無いのなら、やりたいことがある人のサポートをしよう」ということなんですが、失敗も成功も含めた泥臭い等身大の物語とともに紹介されていて、NPOという業界にいることもあり、「おおおおお」と深く共感したのでした。

「やりたいことがある人」の方がうまく生きやすい

ただですね。

「やりたいことがある人」のほうが生きやすいんだよなあ〜〜とも思います。就活でも、会社に入ってからも目標やキャリアシートで「やりたいこと」を問われ続けますから。

「やりたいこと」があった方が、迷うことも少なく、人や応援も集まりやすく、何かと便利で生きやすいのかもしれない。

でも、ハリボテの「やりたいこと」をつくっては自分の二の舞になってしまうので、最後に「ありたい自分」から「やりたいこと」を生み出す方法を紹介します。迷走していた20代後半に出会った一つの記事からの引用です。

今の「やりたいのがあたりまえ社会」では、僕らは
「①きみは何がやりたいの?
じゃあ、②それってどうやったらできるの?」
と、問われます。
でも気づいたのは、私の順番はそうじゃないんだ、ということです。
「そもそも、①どういう状態だったらきみは幸せなの?
そして、②それって何をやってると満たせるの(≒きみは何がやりたいの)?
じゃあ、③それってどうやったらできるの?」
私は、この順番なんです。

やりたいことなんかないけど、しあわせでいたい人の話
https://dutoit6.com/183

これといった強みや「やりたいこと」があるとはいい難い...そんな器用貧乏タイプの人や「やりたいことってなんだろう」と思い悩んでいる人はグッと来ると思うので、よかったら読んでみてください。

「やりたいこと」がない状態って、自分の向かう進路が無いような居心地の悪さがずっとあって。でも止まってばかりで動き出さないのももったいない。今に点を打たないと、振り返ったときに線にもならないから。できることからやってきまっしょい!


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