法華神道秘訣 現代語訳

法華神道秘訣三巻 日澄記

諸神
 天台大師の言葉に曰く「声聞、縁覚、菩薩の三つの段階や性質に依って仏が世に生じても感じる事が出来ない」
 妙楽大師の言葉に曰く「感じる事が出来ない、とは、仏はこの世に顕れて人々に成仏の姿を示すが、その姿は必ずしも「仏の化導」と言う訳ではない。」
仏や菩薩としてそのままの姿で人々を救おうとすれば、悪業を積んだ人々やレベルの低い人々は恐れて仏に近づけないものである。故に仏はきらびやかな衣服を脱いで、きれいな肌を隠して九界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩)の存在の姿に成って衆生に近づいて慣れ親しみ、それを結縁の始めとしてしまいには諸仏の浄土へ導くのである。快楽と不退(退転しない、退化しない。)の浄土を出て、人々の世界に降りて神々と成り、天道の衆生が受ける苦しみである五衰三熱(五衰は涅槃経の教説(異説あり)である。天人の死の兆候。 衣服が汚れる、冠の花がしぼむ、身が汚れて悪臭が生じる、わきの下から汗が流れ出る、自らの在り方を楽しめない。 三熱は龍族などが受ける苦しみ。熱風などに身を焼かれる、悪風に衣服を奪われる、迦楼羅(かるら)という巨大な鳥に食べられる。)の苦しみを受ける事を覚悟して、衆生を哀れまれるのである。人の親が子の為に三熱の苦しみを受けるといえども、それをいとわないようなものである。親の哀れみよりも深く優れた仏の慈悲により神々の利益が生じたのである。
 大師釈に曰く「仏には三種類の優れたお導きの手段(身密、口密、意密)がある。身密は仏舎利(仏の御骨)、口密は経典の教え、意密は神明である。」と。 また仏の智慧の功徳は陰と陽の働きとしてこの世に顕れるのである。五行大義に曰く「陰と陽によって物が生じる、これを名付けて神明という。」と。
 神々は多くおわすと言えども、まず大きな神は二十二社ある。(著者の注釈に曰く「二十二社の中に法華経三十番神(一日毎に交代で法華経を守護する三十柱の神々)の中には七社が含まれている。」) 吉田兼倶は二十二社の顕れた年代を記されているが、その一番には豊受大神(とようけのおおかみ 伊勢神宮外宮の神)、二番に皇大神宮(伊勢神宮内宮)である。豊受は外宮の神である。これは伊勢の神と同じである為、二十二社の中には含まれないが、伊勢、石清水、春日と記される順番の一番上に記されている神でもある。次に賀茂の社の事。第四十代、天武天皇六年(677)二月、祭祀を始める。京都出雲路に秦氏の娘が居た。賀茂川に出て布を洗っていると、水上より鴨の羽の矢が一つ流れてきて布にまとわりついた。この矢は即ち雷と成って虚空に飛び、後に下って神となった。そのため、賀茂の大明神の事を「分雷の神」(わけいかづちのかみ)とも言う。上賀茂には矢が祀られ、下賀茂には母、中賀茂には御子が祀られる。(原文のまま翻訳したが、この話は賀茂氏の神話と秦氏の神話が混入した結果だろう。賀茂氏側の本来の神話としては、ある日、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘である玉櫛姫(たまくしひめ)が賀茂川で遊んでいると河上から丹塗矢、つまり赤い矢が流れてきた。玉櫛姫がこれを持ち帰ると懐妊し、子供が生まれた。その子を賀茂分雷命が生まれた。そのため、玉櫛姫の兄である玉依日古とその子孫がこれを祀った、とされる。また矢が飛び上がったというのも賀茂分雷神が成人した宿縁の席で、祖父(賀茂建角身命)からこの酒を父の元へもっていきなさいと言われた神が天に登っていったという話に関係しているかもしれない。この矢の持ち主は火雷神(ほのいかづちのかみ)とも、大山昨神(おおやまくいのかみ)とも言う。この話は「秦氏本系帳」にも同様の事が記されており、また山城国の秦氏と賀茂氏は元々深い関わりがあり、また賀茂神社も秦氏が奉じた松尾大社と深く繋がっている。それらの事もあってこのような混交した神話が伝えられたのだろう。)
この故に秦氏の人は賀茂氏の人を婿として迎えて、賀茂氏に祀りを譲る。(賀茂祭) また祭の日は葛山(かつらやま 葛城山の事か?)の葵をかざす。これは父子の関わり(原文では芳契 ちい、あるいは、ほうけい めでたい結びつき)を顕わしている。これは秦氏の「本系帳」に記載されている。
 「いかなれは そのかみ山の あふひ草(葵草) 年はふれども 二葉なるらん」(いかなる時が過ぎようとも、この神山の葵の葉の父子の契りが切れる事は無い。 原文には小侍従とあるが、詳細は不明。)
賀茂の神は松尾とご同体である。私の知る所に依れば松尾明神の降り立たれた山を「かぶら山」という。
 この賀茂神を別して王城の鎮守と崇め給う事は嵯峨天皇の代からである。嵯峨天皇は平城天皇の御弟であり、高岳親王(平城天皇の子)と帝位を争われた時、嵯峨の離宮におわしまして賀茂の明神にご祈祷された。そして大同五年(810)九月二十七日にご即位され、弘仁元年と号された。それ以来、伊勢と共に賀茂にも斎院(皇族の女性を派遣して祀らせる)をお立てになられた。伊勢の斎宮、賀茂の斎院、いずれも「いつきの宮」と読む。四時(四季)の祭、臨時の祭などの王城(京都)の祭りも課されている。古今集の第十巻の言葉に、右近の「むまば?」「ひおり?」の日と言うのはこの事である。(後述) 「むまば」と書いて「ばば」と読む。また五日は左近の真手結(まてつがい)、六日は右近の真手結である。(真手結とは近衛府(このえふ 宮中を守護する武官)の役人たちが大内裏の馬場で行った、騎乗しながらの射的競技。この事を考えれば、先の「むまば」も「馬場」(うまば ばば)を指すだろう。つまり、宮中の真手結を行う場所を指して真手結の儀式を顕わしたのだろう。右近左近は右近衛府、左近衛府を指すか。)
五月五日の事を俊頼(平安後期の歌人、源俊頼の事か)の歌に
 「長き根も 花の袂に かほる也 けふ(今日)や真弓の ひをりなるらん」(長き根の意味を理解しきれなかった為、訳は省略するが、花の袂はきらびやかな衣装、ここでは近衛府の役人の衣装だろう。真弓等も同様である。)
「ひをり」と言うのは色々な説があるが、随身(近衛府において貴人警護をする役人)の「かぢ」(詳細不明)の尻を「引き折りて切る」(原文ママ)故である。(これは随身の衣装について述べたものか。残っている随身の絵には見当たらず。) 荒手結(真手結の為の練習稽古)もまた同様の衣装であるが、それは真手結の為の「慣らし」であるから、真手結の日を「ひをりの日」(待ちに待った日、などのニュアンスだろう。)というのである。賀茂の祭には徐目(じもく 官位を授ける儀式の事。前任者を「除」き、「目」録に記録するという意味。)がある。ある説に山王(日吉大社)の祭は卯月(四月)の申の日である。次に酉の日は賀茂の祭がある。まず山王祭があれば「もろかつら」を被る。山王の祭が無く、賀茂の祭しか行わない場合は「かたかつら」である。(賀茂祭の際に桂(かつら)と葵を髪や冠に刺す事を諸葛(もろかず(つ)ら)と言い、葵だけの場合を「かたかずら」という。この事を指すか。つまり、山王日吉大社側は「桂」を、賀茂神社側は「葵」を顕わしている、とする説を述べている。) 新古今集に、
身の望みが叶わなかった時、社に参詣して籠った時、葵を見て鴨長明が読んだ歌に
 「見れはまつ いとと泪を もろかつら いかにちきりて(契) かなわなれなん」(諸葛を見れば、つい涙が出てしまう。前世にどのような関わりがあったせいで自らの望みが叶わなかったのだろうか。)(鴨長明は賀茂神社禰宜職の家系であり、禰宜職就任を望んで二度の機会を得たが、いずれも勢力争いに敗れて任官できず、失意によって出家する。この後、今日でも有名な「方丈記」を書いた。)
上賀茂神社は賀茂氏、下賀茂神社は鴨氏が担当している。
新古今集に曰く
 「われ頼む 人徒(いたず)らに なるならは また雲分けて 上るはかりぞ」(私に祈願する者たちの心を虚しくしてしまうくらいであれば、私はまた再び雲をかき分けて天に帰ろう。 賀茂の神祇歌。または菅原公とする説もある。)
これは賀茂の御歌である。「もろかつらかくる」(もろかつらをかぶる、の意か?)とは葵をさす事を言うのである。

 松尾の社(神)は賀茂と同体である。四十二代文武天皇、大宝元年(701)に山城国葛城郡(やましろのくにかどのぐん 京都府京都市右京区を中心とする辺り)に鎮座した。(文武天皇の命を受けた秦忌寸都理(はたのいみきとり、いみきは姓であるから、秦都理とも)によって建てられた。この主祭神の一柱(他に中津島姫命を7祀る。この神は宗像三神の一人、市杵島姫命の事。)である大山昨神に関して先述した賀茂氏の矢と同様の神話が古事記等に残されている。)

 平野の社(神)は延暦年間(782~806)に山城国葛城郡に祀られた。仁徳天皇が霊神として顕れたのを祀るという。(実際には平野神社は平城京にあった桓武天皇の母方(高野新笠)の祖先を祀った祠を平安京に移した、と考えられている。そのため、主祭神も仁徳天皇ではなく、「今木皇大神」(いまきのすめおおかみ)、「久度大神」(くどのおおかみ)、古開大神(ふるあきのおおかみ)、「比売大神」(ひめのおおかみ)の四柱である。ただし、中世の時代には仁徳天皇が主祭神であるという説が流れていた。これは仁徳天皇が村を見て人々の家から炊事の煙が立ち上っていない事をご覧になり、その村の税を免じたという故事が、かまどの神である久度大神と結びついた結果でもある。本書もその説を取っているのだろう。平野神社は皇太子守護の神社として皇族や皇族から分岐した氏族から崇敬された。)
家隆(鎌倉時代の歌人、藤原家隆か?)
 「難波津に 冬籠りせし 花なれは(や) 平野の松に ふれる白雪」(難波津の花は冬を過ごし、平野の松には白雪が積もっている。)(この歌を理解するには、まず王仁が仁徳天皇に対して詠んだ「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」を理解せねばならない。これは「難波津の花がようやく、冬を終えて咲いてくれた。今は春であるとこの花は咲いて告げている。」という歌であり、これから派生している。難波津は大阪市中央区にある高津宮という仁徳天皇の旧跡で、かつて難波の仁徳天皇の旧跡から平野へ勧請した、と考えられていたのだろう。この歌もその難波津(花)と平野(松)とを対比対応させた歌であろう。余談だが、この時の花は梅の花とも桜の花ともいう。)

 稲荷の社は四十三代元明天皇の御代、和銅二年(709年)に稲荷山に鎮座する。以上、七社を述べた。(ただし、稲荷社神主家大西氏系図では和銅四年としている。)

 大原の社。文徳天皇の御代、嘉祥三年(850年)に閑院左大臣(藤原冬嗣)が春日から移し奉った。都近くにおいて常に参詣できるようにするためである。(実際には桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏が長岡京時代に春日から鷹狩りの地である大原野に勧請し、その後文徳天皇自身が現在地に社殿を造営した。文徳天皇の外祖父が藤原冬嗣である。)

 大神の社、または三輪社と号し奉る。神代より山城国城上郡に垂迹した。地神第三の神であり、日本国の地主の明神である。ある説に依れば、大鷲山の鎮守の金毘羅神(インド霊鷲山の鎮守としての金毘羅神という意味か)がわが国には三輪神として顕れ、山王七社の中には大宮権現(比叡山の神道、山王神道の神で本地は釈迦仏である。)として顕れたという。
三輪と名付けるには由来(物語)がある。昔、ある所の人が社を祀ろうとしてこれを造ると鳥(あるいは烏)が百千と来って木材を食い破って、それぞれくわえて去ってしまった。この事はご神託である、と考えて、社は造らないという事に定めた。故に祭の日には茅(ちがや)を三重に、あるいは三つ造って椙の木を祀るようになった。古今十八には読み人知らずとして
 「恋しくは とふらひきませ 我が庵(いお)は 三輪の山もと 杦(すぎ)立つる門」(恋しかったら尋ねに来なさい。私が住まう地は三輪山の地、杉の木の立つ門があるよ。)(我が庵は 三輪の山もと 恋しくは とぶらい来ませ 杉立つる門 と現在、世に流布するタイプの古今集には載せられている。)
この歌をとって
伊勢(歌人の伊勢の事)
 「三輪の山 いかに待(ち)みん 年経(ふ)とも 訪ぬる人も あらし(じ)と思へは(ば)」(三輪山がどれほど人を待っていても、誰も尋ねる人が居なかったのではないだろうか、と思うと・・・。これは藤原仲平という貴族との恋愛に敗れた作者が詠んだ歌である。三輪山とは作者自身の暗喩でもある。)
これより三輪のスギの門を尋ねる故事を歌に詠む事が行われるようになった。
 「三輪の山 しるしの杦(すぎ)は 失せす(ず)とも たれか(誰か)は人の 我をたつ子し(尋ねし)」(三輪の山の、印となるスギの木は無くならなくても、私を訪ねてくれる人はいるのだろうか。)
 「ふる雪に 杦の青葉も 埋(うずも)れて しるしもみえぬ 三輪の山本(もと)」(雪が降って杦の木の青葉さえもうずもれてしまったので、印もわからなくなってしまった三輪山である事よ。)
顕昭法師の言葉に依れば、この歌は三輪の明神の御歌と言う説はあるが、実際の所はわからない。この歌より「しるしの杦」という事を歌に詠むようになった。
 「我が宿の 松のしるしも なかりけり 杦村ならは 尋ねきなまし」(私の住まいにある松の木の枝ではなく、杉の木の枝をお尋ねになってしまうのでしょうね。 これは赤染衛門(女性 歌人)が、夫の大江匡衡(おおえのまさひら)が稲荷神社の禰宜の娘と恋仲になり、赤染衛門の下に通わなくなった時に詠んだ歌。従って、ここで言う杦も三輪大社の杦ではなく、稲荷神社の杉の印を指す。稲荷神社における験の杉とは、稲荷神社から持ち帰った杉の枝を刺して枯れなければ願いが成就するというもので、さらに転じて後には杉の小枝を持ち歩くようになった。)
住吉の御歌
 「住吉の きしもせさらん 物ゆへに 子(ね)たくや人に まつといわれん」(住吉のきしもせさらんものゆゑにねたくや人に松といはれむ 拾遺和歌集 住吉明神の御託宣の言葉、とも。)
これは三輪明神の住吉へお通いになられた時の歌である、と伝わる。

 石上神社または布留社(ふるのやしろ)と号す。(上の如く、ご神体は劔(剣)である。) 垂仁天皇四十九年、大和国山邉郡(やまのべのこおり)に鎮座した。(ただし、垂仁天皇三十九年に剣一千口と神宝が納められたと記述される為、実際にはこれより以前からあったと思われる。)

 大和神社は崇神天皇六年、石上神宮と同国同郡内に鎮座された。

 廣瀬神社 伊勢神宮の外宮と同体の神である。天武天皇四年(675)、大和国廣瀬郡に鎮座した。

 龍田大社 鎮座の年月日は廣瀬神社と同じである。これは同時に祀られた為である。(ただし、延喜式に依れば崇神天皇代に凶作に悩んでいた所、夢告があった為に龍田山に天御柱命、国御柱命を祀ったのが創建とされる。ただし、日本書紀には天武天皇四年に風神を龍田に祀り、大忌神を広瀬河に祀ったとあり、この記述を元にしたと思われる。)

 住吉大社 兼倶紀に曰く、「神功皇后元年に鎮座。摂津住吉郡にご神託に依って建てられた。後代、神功皇后を加えて勧請し、四つの社に分けた。」と。ある説に住吉のご神体は天照大神が青海原(広い海)を探る際に用いた鉾(ほこ)の霊神である、という。またあるいは地神第五の神、人王第五代孝昭天皇として顕れたのが、神功皇后の御時に再び現れた、ともされる。
本地は明星天子である。また虚空蔵菩薩とする説もある。垂迹する時、松の木七本、楠木七本と共に天下ったとされ、その為、住吉神社の森はいずれも人間界のものではなく、天上の霊木である。
 「夜やさむき 衣やうすき かたそきの ゆきあひの間に 霜や置くらん」(夜が寒いのか、私の衣が薄いのか。それともかたそぎ(神明造りの建物に板の両端が交わっている部分)から入ってきた霜が落ちて積もってきているのだろうか。)
住吉明神が帝の御夢にてお告げになられた時の歌である。これに子細あり、という。(袋草子には社が壊れた際に修理してもらう為に夢に顕れて詠んだ、という。)
一つの説には四十七代廃帝天皇(淳仁天皇、淡路廃帝の事か。恵美押勝の乱に連座して廃される。)の御代、天平宝字三年(759)七月に新羅の軍兵三百九十余捜の船に水手(乗組員)一万七千三百人、軍兵四万八千七百余人を乗せて攻めてきた時に初めて住吉の社をお建てしたという。年代記には宝字六年(762)に初めて住吉の社を造る、と。
以上、上中七社記し終える。

 日吉神社の事。兼倶記に曰く「先代旧事紀に曰く大山昨神、淡海の比叡山(江州にあり)の近くに座す。と。垂迹なされた年月日は不明である。」と。霊応記に依れば二十一社の社があり、まず最初の七社は大宮権現の関連で、第三十代欽明天皇の御代に大和国に三輪明神として天下り、その後に三十九代の御代に大比叡明神として顕れになった。天照大神の子孫はこの国の地主、三輪の大明神というのは今の日吉山王である。伝教大師がご出家の後に授戒を受けて「法宿菩薩」と号し奉った。本地は釈迦仏である。
 「鷲の山 有明の月の めくり来て 吾立杣(わがたつそま)の 麓(ふもと)にそすむ」(インドの霊鷲山に登った夜明け前の月が(日本に)巡り来て、今は比叡山の麓に私は住んでいる。 鷲の山はインド霊鷲山。法華経の説かれた場所。月はインドを「月氏国」と呼ぶことにも関連するか。また「我立杣」は通常、私の住んでいる山という意味だが、伝教大師が「阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち 我立杣に 冥加あらせ給へ」(この上なく正しい悟り(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を開いた仏たちよ。我が山(比叡山)に悟りの加護をお与えください。)と詠んだ事から、比叡山を指す言葉でもあり、本歌はこの意味を持つだろう。 天台座主慈円(慈鎮)の歌。)
 「恋しくは とふらい来ませ(訪らい来ませ) 我が庵は 三輪の山本 杦(すぎ)たてる門」(先に述べたものと同意。)
これは大宮権現の御歌である。
二には二宮地主権現。(本地は薬師如来) 国常立尊である。高峰に五色の花が大杉に散って天下りなさった時、名を「花臺(だい)菩薩」と申すのはこの方の事である。これを「小比叡明神」とも名付け奉る。御歌に曰く
 「海母(も)山や をひへの杦の(御家のスギ?) ひとりいは 嵐もさむし 問人もなし」(海母山の杉に訪れる人も居らず、嵐の寒さを問う人も居ない。)
三には聖真子権現。(本地は阿弥陀仏) 四十二代天武元年に近江の国志賀郡に能われ給う八幡大菩薩である。山王へ遣い給う御歌に
 「何事か をわしますらん(おわしますらん) 瑞牆の 久しくなりぬ 見奉らて」(何事によって今ここにおわすのだろうか。その時に建てた瑞牆も、久しく時が立ってしまったのを、今見奉る。)
四には十禅師権現。(本地は地蔵菩薩) 桓武天皇の御代、延暦二年(783)正月十六日に童子の姿で天下る。天児屋根命、春日明神がこの方である。
五には八王子権現。本地は千手観音。天神第二の国狭槌尊(くにさづちのみこと)である。第十代崇神天皇元年に近江国志賀郡比叡の大獄の傍に天下りになられた。諏訪の上の御陵の山の明神はこの方である。(タケミナカタ神の事であろう。上神本宮祭神。)
六には客人権現。本地は十一面観音である。桓武天皇延暦元年(782)、八王子(比叡山の一部)の山の麓に顕れ給う。二十七代の座主、慶明(きょうめい)大僧正の時、宮造りして遷宮なされた。これは白山妙理権現の事である。
七には三宮権現。(本地は普賢菩薩)桓武天皇の御代、延暦六年(787)高貴な女性の
姿として紫雲に乗り法華経を手にして大獄(比叡山)のほとりに天下りなされた。伝教大師と相まみえていくつもの神約を交わされた。この方は諏訪の下の陵山の大明神である。(これは八坂刀売神(やさかとめのかみ)の事を指すか。タケミナカタ神の妃であり、上社前宮及び下社の祭神。) 以上、七社を皆、山王権現という。
新日吉七社 第七十八代二条天皇永暦二年(1161)造立した。山門の事を鉾の滴り岸ともいう。また龍神の築山ともいう。昔、青海原であった時、比良の山を越えるような波の音を山王権現が聞き、その音が「如来常住 無有変易」(如来は常住(永遠)にして変易(変わる事)ある事無し。)と聞こえた為、ここに跡を垂れたという。その波の音の鳴りやむ処を「ハシトノ」という。(原文は波止土(土の異字体)濃) 万葉集に山王の御歌として
 「大ともの 御津の浜辺を 打こさん よりくる波の 行方知らずも」(大伴の三津の浜辺に寄せ来る波はどこに行くのだろうか・・。)
中務卿宗尊親王
 「大ともの 三つの濱松 かすむなり はや日の本に 春やきぬらん」(大伴の三津の濱の風景にも霞が出てきた。あぁ日本にも春が来たのだなぁ。)
大宮と地主と聖真子の三神が縁に任せてバラバラに行き分かれた時の御歌
 「我も思ひ 君も忘るな ありそ海の うら吹く風の 止むときも無く」(私も君の事を忘れない、君も私の事を忘れないでくれ。海の浦に吹く風が止む事が無いように、お互いの事を忘れないようにしよう。 元は笠女郎(かさのいらつめ)の歌である「我も思ふ 人もな忘れ おほなわに 浦吹く風の やむ時無かれ」(私は愛しいあの人の事を忘れない、あの人も私を忘れないでいてくれてほしい。海の浦に吹く風が止む事が無いように私たちの思いがずっと続きますように。)という大伴家持との恋歌の改変であると考えられる。なお、笠女郎は奈良時代の人物で万葉集にも二十九首の歌が残るが全て大伴家持との恋歌である。)
 山王は王国全体(日本全体)に渡って法華の守護神である。天竺(インド)においては釈尊が法華を説いた時、王舎城において金毘羅神と成って法華を守護し、漢土(中国)においては天台山に住して妙法を護持した。天台大師に対しては大きな猿の姿をして顕れて、「赤銅八葉の鏡」を大師に奉った。大師が「貴方は誰なのか、この鏡は何か」と問うと、「我は山王である。この鏡は、昔この山に暮らしていた「白道猷」(はくどうゆう?)という仙人が持っていたもので、この鏡をもって仏法の深秘を悟るべし。」と答えて姿を消した。この事は「法華伝記」に記述されている。日本においては比叡山において守護なされている。その由来を尋ねれば、伝教大師が入唐して受ける所の教釈二百余巻、決する所の法門七百余条、ご帰国の際にこれらを守るために山王が化現されたという。三宝輔行記には、「大師が求法の後、帰国する際に暴風に在った為、祈念すると一人の童子が船頭に顕れた。大師が「貴方は誰ですか。」と尋ねると、童子は「私は天台山の鎮守であり、法華宗を守る明神である。仏法が東に渡っていくように、大師ご自身も本国にお届けしようと思って現れた」大師は重ねて「貴方のお名前はなんでしょうか」と問うと「縦の三点に横の一点を加え(山)、横の三点に縦の一点を加える(王)」と。」(天気は暴風によって荒れて船師さえも右も左もわからない状態に、大師の祈りによって雲が晴れて日輪が現れ、天下が明らかになった。これによって「日吉山王」と名付ける。) 伝教大師はこの時、恭敬し合掌して神力偈(法華経如来神力品の神力偈)を唱えた。感涙して拭くことなく、礼をして首を挙げる事が無かった為、その姿を見る事は無かった。こうして教釈二百余巻、法門七百余条が日本に伝わった。まず童子の形を現して、後に山王と名乗るようになられた為、「一児、二山王の義」とこの約束を言い現わすようになった。また山王の字を一心三観とも感応の一心三観ともいう。(一心三観とは天台宗の禅法である。) これは秘すべき事である。その後、また伝教大師の元へ来てお会いになった。
慈覚大師の神通記に曰く「大海に三つの光があった。崇神天皇の御代に大和国布留社にお住まいになり、桓武天皇の御代の延暦年間には大津の浦、八柳の田中(不明 地名か?)、恒世(淳和天皇の第一皇子の恒世親王の事か。平安初期の皇族で桓武天皇の孫にあたる。)の御屋敷に御一宿された、という。延暦年間に滋賀郡音無し河の源に姿を顕わされた。伝教大師に対して出家授戒なされた。今日の日吉三所権現はこれである。」
光宅(義真)の後伝法記に曰く、「先師(伝教大師)がご入唐なされた時に持ち帰った、天台法華宗の沙門最澄が一乗妙戒をもって山王三聖にお授けなさった。故に法号を法宿、花臺、聖真子という。大宮(本地は釈迦仏。法宿菩薩。)、二宮(地主権現とも。本地は薬師如来。花臺菩薩。)、聖真子菩薩(本地は阿弥陀仏。)この三聖菩薩は「妙法蓮華経」の五字である。いわゆる法宿とは「妙法」、花臺とは「蓮華」、聖真子とは「経」である。訓釈(法の宿る、故に妙法。花の臺(だい)、故に蓮華。聖なる真の子、故に経)してその心を知るべきである。」
 天台宗の教、行、証の三種類を記した書物の中の行の部分に山王の口伝二十遍があり、その一遍一遍をもって日吉社の上・中・下二十一社の中に上七社を当てはめていく時、第三遍目の法華の首題の部分が山王神に当てはまる事は真に神秘な事である。また山王の大事には七箇の相承がある。その中に山王とは仏にあてはめれば釈迦、法にあてはめれば妙法蓮華経、神にあてはめれば山王、この三つは一体不二であり、衆生を利益する、と三宝輔行記には記される。これについて何故に必ずしも七社という数で顕わす必要があるのだろうか、これは表向きの事であり、真の意味としては七支過罪(何を指すかは不明)を改めて七覚正道(七覚支の事か。悟りの七つの段階。中阿含経に説かれる三十七道品の中にもあり。)とする義を顕わす為である。また七は数においても円満の意味を顕わしているのである。また山王の山とは三観一心(一切のものを空(実体無く)・仮(仮に存在する)・中(空と仮を統一した見解)の立場で観ずる)を顕わし、王は三諦一心(空仮中の三つの真理それ自体)を顕わす。一心三観は智(真理を知る方法)、一心三諦は境(真理の境地そのもの。つまり、例えるなら境は物であり智は明かりである。明かりがあるから、物が見えるという事である。)
また山王と名付ける名前をもってしても諸々の神々より優れる事は明らかである。法華経が諸経典の王であり須弥山(最も大きな山)に例えられる通りである。釈に曰く「山王は最も高し」と。よって山王と法華とは一体である事は明らかである。法華の守護神と崇めるのはこの心ゆえである。
 梅の宮の社 鎮座の年期は不明である。貞観元年(859)十月一日に祀る。(梅宮大社の事か。橘氏の氏神で元々は奈良にあったが、嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子によって平安京に移された。)

 吉田の社 貞観年中に山城国愛岩郡(をたきぐん と読み仮名がふられている)に鎮座。ある説には摂津、難波京におわした住吉神が平安京の東に吉田明神として顕れたという。またある説には天児屋根命(春日明神)と一体であるともいう。(元々は藤原氏が春日明神らを祀ったに依る。更に中世、吉田神道の中心地となる。)

 廣田の社。神功皇后元年二月に摂州武庫郡に鎮座した。これは神教に依ってである。(神功皇后の三韓征伐の帰りにおいて神功皇后を討とうとした忍熊皇子が明石で待ち伏せていると、神功皇后の船は海を巡って止まらなくなった。そこで神意を占って天照大神の荒魂を祀ると上陸出来た為、忍熊皇子を討った。これは廣田神社の始まりである。)

 祇園の社。貞観十八年(876)山城国愛岩郡八坂郷の木の下に鎮座した。その後、昭宣公(藤原基経)がこの地に威験を感じた為、その臺(だい ここでは社の事か?)を壊して精舎(仏教施設)を建立した。

 北野の社。六十二代村上天皇の御代、天暦元年(947)六月九日、北野に鎮座した。天徳三年(959)二月、九条右丞相(藤原師輔)が社殿を贈造し宝物を奉った。祭神は太政威徳天満大自在天神(菅原道真公の尊号)である。私の知る所に依ると、三十番神の中の北野明神は別の存在である。この神に如法経(法華経)を行じるようにしたのは、五十三代淳和天皇の御代、天長八年(831)の頃であり、北野天神が顕れたのはその百年余り後の事だからである。(詳細不明だが、もし本当にその記録があるのだとしたら元々北野に菅公以前に火雷神が祀られており、その神に関するものではないか。)ある説に菅笠を着て参詣するという。
 古伝に曰く菅公には父母無し。文章博士(文官の高位)である菅原是善卿が黄昏の時、庭に立って眺めて居ると一人の童子が現れた。姿顔も美しくて普通の人ではないと見抜いた是善は「君は誰か、どの人の下から来たのか」と問うと「私には親はおらず、住まう処も無い。願わくば貴方を父として頼りたい。」と答えた。是善は喜んで抱え上げて養育した。その子は七歳にして詩を作り、その言葉はとても普通の人の造るものとは思えず、万人が舌を巻くような出来であった。十二、三の頃には父親(是善)の腕前を抜くほどと成った。その後、帝にお仕えするようになり、一つ一つの位を登って儒教の心をよく尽くした。延喜帝(醍醐天皇)がまだ東宮(皇太子)であった頃、菅公(菅原道真)を試そうとして一日に百首の詩を作って参内せよ、と命じるとこれを守って毎日百首の詩を詠んだ為、ついに中納言の位に就いた。その日また大将の任官の宣旨が下され、三度辞退したものの勅令がしきりに届いた為、ついに大将に成って天皇の侍読の位に就いた。更にはその後、右大臣の位にまで進んだ。世継記(せいけいき)に曰く「醍醐天皇の御代、平朝臣(平氏出身の官人)が左大臣であった。(ここでは平朝臣になっているが、実際には藤原時平である。この時平という名前から誤記したのか。)政治を司って権力を手にしていた。菅公は右大臣であり、左大臣よりも権威を持っていた。よって左大臣はこれを恨んで讒言(ざんげん 悪意をもって告げ口する事)した。その内容は醍醐天皇の御弟に式部卿宮という、父の宇多法皇からも特別可愛がられていた宮が居り、菅公が亭子院(ていじのいん 宇多法皇の譲位後の屋敷)に参内して色々と御雑談なされた後、法皇が仰せになるには醍醐天皇が政治を司ってから、ますます繁栄して何事も心安く思っているが、式部卿は醍醐天皇の弟であり(身分の難しさから)心苦しく日々を過ごしているであろうから、これを弟子にして学問をさせてやってほしいと菅公に要請した。その時、時平がこの場にやってきて話を差し止めた。その後、時平が醍醐天皇の下に参り、「法皇のもとへ参じて菅公が謀(はかりごと)をして醍醐天皇を退けて式部卿宮を即位し奉ろうと御談合しており、そこに私が参内して話を中止させました。」と奏上した。醍醐天皇はこれをお聞きになって大いにお怒りして、たちまちに菅公流罪の勅令を出した。法王はそれをお聞きになりすぐさま参内しようとして弘徽殿の細殿を通ろうとすると藤原菅根という人物に会ったため、事情を話した所、菅根は「お怒りを鎮めさせようとしてもいまだ止む気配がありません。さらに天子(天皇)に父母無し、という言葉があり、何を述べようとも納得なさいませんでしょう。(法皇様も)早くお帰りになってください。」と差し止めた。この菅根は昔、蔵人頭という役職にあった時、庚申のおこもりの際に菅公と議論して頬を打たれたという事があり、その恨みが深いためにこのように申し上げて醍醐天皇の下へ行かせなかったのである。法皇は思い煩うあまり、清涼殿の大床でしばしば立ったり座ったり、さらにしきりに咳をなさっていた。醍醐天皇は御歳、十七歳であり、いまだ幼少である為、御簾の内にて朝臣の会議をご覧になっていた。菅公の事情をお知りになりたい、誰か陳状する者はいないかと思っていたが、耳にもお入りになる事も無く時間が過ぎていったため、仕方が無く流罪に定めて、太宰権師の位を与えて昌泰四年(901)に配流した。この年、改元して延喜とした。正月二十五日に山崎の地にて御歳五十八歳、出家して西海の筑前(大宰府)に左遷させられた。その時、法皇に捧げた歌に
 「流行 底のみくつと 成はてぬ 君しがらみと 成って止めよ」(大鏡には、ながれゆく 我は水屑と なりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ、と記される。意味は、(流罪と成って)流れゆく私はもはや水屑(水中に浮かぶ塵)のようなものです。どうか我が君よ、柵となって我が身をとどめてください。)
菅公には男子四人女子四人の子がおわしたが、それぞれ名残惜しい思いを抱いていた。その思いは屋敷の庭に咲く梅や桜にも向けられ
 「東風吹かば 匂いをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(東から来る風が吹いたのならば、その匂いを西の彼方に居る私のもとまで届けておくれ。私が居なくなっても、どうか春を忘れないでくれ。)
この屋敷の梅は菅公を追って大宰府まで飛んでいったという。
 「桜花 主を忘れぬ 物ならば 東風吹く風に 言伝(ことづて)をせよ」(桜の花よ、私を忘れぬというのならば、東から来る風に言葉を乗せて西に居る私に届けておくれ。)
この屋敷の桜は菅公の名残を惜しむあまり、春に成ってもついに花を咲かす事無く枯れてしまった。」
既に都を立ち去って目的地へ向かう時、北の方(正妻)へ
 「君が住む 宿の梢を はるばると(ゆくゆくと) 隠るるまでに かへりみるかな」(貴方の住む屋敷の木々の梢が、私が道を進むたびに隠れていってしまうまで、何度も何度も振り返った事であるよ。)
心細さに
 「離家三四月 落涙百千行 万事皆如夢 時々仰波蒼」(家を離れて三、四月、涙が落ちる事、百千行、万事皆夢の如し、時々波蒼を仰ぐ。 家を離れて三か月、四か月も経ってしまった。既に涙がこぼれる事、百千にも及ぶ。全ては皆、夢のようであった。行く時々に青空を仰いで行く末を思う事よ。)
筑前の田舎に居住して日々を心細く過ごした。時折、煙が立ち上る情景、浦やかな里で取れた柴で作った網戸、海人の家が十件ばかりあっても、人が通う色さえも無い。
 「夕されば 野にも山にも 立つ煙 嘆きよりこそ 燃えまさりけれ」(夕方になるとあちらこちらに煙が立ち上る。私の嘆き悲しみをくべる事で、より一層燃えていくのだ。)、
その後、御身の咎無く罰を受けている事を祭文に書いて高山に登り、七日間の間、天に向かってお祈りなさると、この祭文が雲上へ飛び上がって帝釈宮をも過ぎて梵天にまで登って行ったのは希代の不思議な事である。こうして配流の後、三年過ぎて御歳六十歳、延喜三年(903)二月二十五日、大宰府の榎木寺(えのきじ 現在の太宰府天満宮榎社の事である。1023年藤原惟憲が道真公の霊を慰める為にその屋敷の跡に浄妙院を建立した。境内に榎木の大木があった為、榎寺と呼ばれるようになった。)にて薨去(こうきょ 貴人の死去)なされた。筑前国四堂辺に御墓所を定めて葬送なされようとすると、御車が途中で止まってしまい、人牛の力では動かす事が出来ず、皆不思議な思いをして、その止まった場所を墓所となされた。今の安楽寺がこれである。(安楽寺は天満宮境内にあった寺院であったが、神仏分離に伴って廃寺と成った。天満宮境内にはその痕跡として相輪トウが残る。) その後、比叡山延暦寺の座主である法性坊尊意僧正が五更(午前三時から五時、あるいは四時から六時)の時刻、いまだ夜が明けぬ時に止観して心を澄ましていた時、中門の妻戸を叩く音が聞こえた。僧正が不審に思って戸を開けて見てみると、春の頃に筑紫でお亡くなりになったはずの菅公がおられた。僧正は驚きつつももてなして持仏堂に招き入れて、このような深夜に何故降臨なされたのか、と問うと菅公は「このような道理の通らない世の中に生まれて無実の罪によって左遷の身となって果ててしまった事は本当に口惜しい事です。ですから、都に対して雷と成ってこの恨みを晴らそうと思っておりますし、その為に梵天や帝釈天、四天王や冥府の高官たちからも許可を頂きました。そこでお願いなのですが、御坊にはいかなる勅令があっても宮中に参内なさらないでください。この事を申し上げる為にここに参りました。」とお答えになられた。僧正はそれを聞いて「御恨みは最もな道理です。このような事は中国においてもあり、当時、修行に依り即身成仏を得た一行阿闍梨も邪まな告げ口に依って「果羅国」に流されてしまいました。風月文章の才人であった白居易も小人の讒言に依って潯陽江のほとりに流されて詩を吟じました。(一行阿闍梨の事は事績には特に見当たらず不明だが、白居易は当時起きた宰相暗殺事件(武元衡暗殺事件)に関して上書した内容が越権行為とみなされて冬江州に左遷されている。) このように大国でさえもこうした事件が起きるのだから、日本で起きるのも仕方がない事。そうであるならば、ここは折れて恨みに対して恩をもって報いなさるのが良いでしょう」と述べたが、菅公は重ねて「仰せは最もな事ですが、もはや天に許可を得た以上は讒言をした者たちを正さねばならないと思います。私と師は師檀(師匠と信徒)の契りを結んで久しく、もし御同心くださいますなら、生々世世にわたってご恩に報じましょう。」と答えると、僧正は「宮中の勅使は一度、二度までは辞退致しましょう。しかし、三度目に及んだ時は参じても宜しいか。」と問うと、菅公は顔色を変えられたので、僧正は「喉がお渇きになったのですね。」とザクロを差し出すと、菅公はこれをかみ砕いて妻戸に吐き出した。そうするとたちまちに火炎が起きて十センチばかり燃え広がったが、僧正は水をそそぐ印を結んで投げかけ、不動呪を誦されて火炎をたちまちに消してしまった。その戸は今も比叡山の山坊に残っている。菅公は、暇乞いしてさらば、と述べるとたちまちに比叡山の上に大きな雲が集結して立ち去り、さらに都には黒雲が押し寄せて雷電が震動した。都は豪雨となり海の如くとなった。内裏には左大臣(藤原時平)が居り、太刀を抜きかけて「これは菅公の死霊であろう。菅公は生きていたころは私よりも一つ下の下郎だったではないか、私に対しての無礼を成すのは一天四海、万乗の君主である帝を犯したまう事になるぞ。」と、初めの方こそ述べていたが、程なく天下が真っ暗になって気も魂も衰えてしまった為、太刀を討ち捨てて帝を始め上下万人と共に左右の手を合わせて皆、大悲観世音、後生をお助けくださいとの声ばかりが起き始めた。そして、このように起きた異常事態に対して加持祈祷で天災を鎮めようとして天台山へ勅使を立てられる事、三度に渡ったので、ついに僧正も車に乗って参内なされると、鴨川は大水であふれて東西両方の岸へは鳥さえも飛び越えがたく、牛車はなおの事渡る事は出来ない状態であった。しかし、僧正はただ牛を追いかけよ、車を水上に運ばせよ、と述べると大水は左右に分かれて河原が現れて車はやすやすと通る事が出来て参内していった。そして陀羅尼呪を満たして法反成就の法を修すると雷電はようやく静まって、天気はたちまちに晴れていった。その後、延喜八年(908)十月一日、藤原菅根は新たな神罰をこうむってたちまちに亡くなった。同じ九月三日には本院の左大臣、藤原時平も重病にかかってお倒れになった。これらは菅公の恨みによるものであるとして、薬師や陰陽師などを尽くして祈祷、治癒を計ったが叶わなかった。浄蔵という僧侶が依頼を受けたが、まず占いを行ってみると死相が現れた為に私の力の及ぶ所ではない、と帰ろうとしたが高官たちや女房たちから情けなし、何としても助けてほしい、と必死に頼み込まれた為、仕方がなく不動明王の法を行って祈ってみると、身の毛もよだつ事が起こった。時平公の耳から青色の毒蛇が首を差し出して口から火を吐きながら、しばらくは物を言わずにただ浄蔵を観ていただけであったが、再び祈ろうとした時に蛇が「何故に私に何も聞かないのか、私は朝廷に仕えて第一の忠臣であった。私は一天四海に慈悲を垂れて君の為、臣の為、民の為に政治を執り行ったのだ。しかし、左大臣よりも位が下であるし、左大臣の地位や権力を奪おうとする事も思わなかった。しかし、何の恨みを持たれてか、無実の罪を讒言されて左遷させられ、都において親しい妻や子とも別れて、一人あさましく嘆きながら死したのだ。その恨みを報いんと思っても僧正に妨げられたが、今重ねて本望を達そうとしている。何故にお前は無益な祈りを行うのか。」と述べられた。目の前で取り殺される有り様に万人一同、嘆くよりほかに無し。時が経ち、もはや死期である、と蛇は頭をひっこめた。そうして時平公はお亡くなりになった。
 私の聞く処によると延喜九年(909)の事であり、これは菅公の死の七年後の事である。そのほか、一門の者たちも皆お亡くなりになってしまった。その後、延長八年(930)六月二十一日、御所の清涼殿の末、申の柱の上に天から雷が落ちて焼けてしまった。これは天神(菅公)の十六万八千の眷属の中の第三の火雷気毒神の仕業である。公卿を含めて男女八十余人が亡くなった。帝もこの毒気に当たってしまい、病にお伏せになられたので御位を第十一皇子の朱雀天皇へとお譲りになられ、その日のうちに出家された。これは九月二十二日の事である。その後の八日後、二十九日に御歳四十六にして崩御された。
 私の聞く処によれば、醍醐天皇は地獄に居り、現世から来た日蔵上人とお会いして現世における五つの罪をお説きになられたという。(注 日蔵上人の夢記にこれらの事が記載されている。)
延喜三年(903)より四十年が経って第六十一代、朱雀院の天慶五年(942)七月三日に京の都にある人の娘(多治比文子)に菅公がご神託をくだして「私がまだ生きていた頃、右近の馬場でよく遊んだもので、後にはこの地に住んでみたいと思っていたが、むなしく西に流罪されてしまったのだ。今、魂となって右近の馬場へ来たものだが、身を宿らせるものが無い。願わくば私のために祠を造って心を休ませてほしい」と仰せになった。しかし、その娘の家の身分が低かったため、右近の馬場に作る事が出来ず、家の近辺に垣を作って社を建てたのだった。その五年後の天慶九年(946)、近江比良宮の禰宜吉種の七歳になる子に菅公がご神託して「私が生きていた頃、松を植えたがすぐに枯れてしまうという夢を見た。これは流罪される夢告であったのだろう。願わくばもう一度松を植えて、それを見る人の疑いを無くそう。」と述べられた。(本書の原文には載せられていないが、別の縁起等に依ればこの時に右近の馬場への今一度の要請があったという。これらの事があって後には北野天満宮が建てられた。)吉種はすぐにその事を書きつけて右近の馬場にある朝日寺に参詣し、住僧にこの由を話した所、同九年の秋八月のころに一晩で数千本の松が生えた事を語った。よって翌年の天暦元年(947 六十二代村上天皇)から天徳四年(960)に至るまで十四年間、御殿を作って改める事五度(六十三代冷泉院の治世二年)。(北野天満宮は完成した。なお朝日寺の住僧最鎮らが建立に関わっている。)
円融院貞観元年(859)より天元五年(978)に至るまで七年のうちに内裏の諸司八省が三度も焼けた事は希代の不思議である。内裏の番匠たちが斧をもって新たに柱を建てたが、一夜の間に虫食いが生じた。その虫食いは文字の形をしており、
「造るとも またも焼けなん 菅原や むねの煙の あらんかぎりは」
と書かれていた。この事に驚いて、さてはいまだ菅公のお心は満足されていないのだ、という事になり、一条院御自ら「従一位右大臣」の官位をお書きになってお贈りになった一年前、正暦三年(992)北野の義深(僧侶の名か)が安楽寺(大宰府天満宮にある菅公の墓所のある寺)にお参りした際にご神託がくだった。
「家門ひとたびしずまって、幾たびもの風煙 筆硯なげうち来って五十年 我、蒼天を仰いで往事を懐く 朝朝暮暮涙蓮蓮たり」(原文は漢詩 意訳 屋敷の中は静かになり、いくつもの風煙(時間)が過ぎ去った。屋敷の筆やすずりを用いなくなって五十年。私は青い空を仰いで過ぎ去った当時を懐かしむ。朝にも暮れにも涙がこぼれるばかりである。)
この事を帰京後に朝廷へ奏上すると一条院は驚きになり、正暦四年(993)従一位左大臣を贈官された。同八月十九日に勅使が大宰府の安楽寺へくだって参詣し、宣命(せんみょう 天皇の勅令を漢文で表記した文章)を机の上に置いて捧げ、再拝して読み上げ奉り、御廟(?音で御廟と判断したが、原文は御ビョウ(庫の偏に苗))の上へお見送りすると白石が化現した。そこには
「たちまちに朝使の荊棘をおしひらくを驚く 官品高く、加えて拝感成れり 仁恩を遂窟(原文は遂にウ冠)におよぶをよろこぶといえども ただ恥づらくは生きても死しても左遷されし名なり」(原文は漢文 意訳 急な勅使のお越しにただ驚き、その上、高い官位を賜りうやうやしく拝された事、帝の有り難い恩義がこのような土地にも及んだ事、誠に喜ぶ事ばかりである。ただ恥じるべくは生きても死んでも、左遷されたこの不名誉な名である。)と書かれていた。
勅使はそれを持ち帰り、帝に奉った。帝は内蔵寮の部屋にお籠りになり、神の心はいまだ穏やかではない、とお思いになり、相次いで同五年に正一位太政大臣の宣命を奉られた石に刻んで御廟の上に立てられた。その時、廟の中は揺れ動いて天から声が聞こえてお喜びの詩をもって勅に答えられた。
「昨は北闕に悲しみを被る士たり 今は西都に恥をきよむるかばねとなる 生きては恨み、死しては喜ぶその我を如何 今は望みも足りて皇基を護る」(昨日は北闕(皇居)で悲しみを受け、今は都から遠く離れた西の地で恥をしかばねに晒している。恨みを以て生きてきたが、死してからは喜びの多い私である。今、私の望みは満足した。これより以後は内裏をお守りしよう。) 原文「作為北闕被悲士 今作西都雪恥尸 生恨死歓其我奈 今須望足護皇基」
 ある説には御殿の内側より香ばしい香りの風が吹いて玉すだれを吹き上げてこの詩を書きあげていかれたという。誠に黄金のように有り難い宝としてこの詩は内の官人の寮(内舎人寮の事か?)に納められた。およそこの詩を毎日一遍詠む人は毎日七度お守りしよう、という誓いを菅公は建てられたという。延喜三年(903)から正暦五年(994)まで九十二年の後、このように鎮座されて朝廷守護の神とお成りになった。
梅は左遷遠流を嘆いて菅公を追いかけ、松は都へ帰るという望みを顕わす。(原文は皈(き 帰るの意味)洛本望実体)

 羽丹生(はにゅう)の社、鎮座されたのがいつの時代かはわからない。ご神託に曰く「人の声の聞こえぬほど深い山に私の宮柱を立てて敬う者のために天下に甘露を降らせて霧雨を止めよう。」

 貴船の社。鎮座された時期は明らかではない。神が老人に化して述べられるに「私は都を守る貴船大明神である。」と。永仁九年(1297)五月、上社及び下社八社と成った。

 熱田の社。(あわせて他の一社) 伊勢と熱田は金剛界胎蔵界の両部一体のような関係であるという。熱田の七社はそれぞれ垂迹であり、本社の本地は五智の如来(阿シュク如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)、さらに金剛界の大日如来である。ただし弘法大師が御参詣の時は愛染明王として拝ませになられ、伝教大師御参詣の時は薬師如来としてお現われになった。いずれの神も機縁に応じて様々にお現われになられたのである。次に八釼宮(やつるぎのみや)は不動明王である。八つとは剣の枚数ではなく、数が満ちるという意味である。(訳者注 別説では弥弥の八、つまり永いという意味) 神代の天村雲剣はこのお社におわしましている。ただし、それだけでなく三国(インド、中国、日本)の剣も全てこの宮に修べきであるという。近い時代までこの正剣のまします所の上を通ろうとする鳥たちは切られたように散り散りになって落ちてしまったと伝えられている。あるいは景行天皇の第三の皇子日本武尊の霊神という。次に伊弉諾宮(イザナギの宮)は毘沙門天、次に源大夫神は文殊菩薩である。七社のうち四社はこのようである。残りの三社の本地はいまだ聞いた事が無い。私の聞く所に依るとまた熱田には蓬莱宮という名もある。剣は(天村雲剣か?)また別の所にある。本社は日本武尊である。

 熊野権現の事。日本で神社を崇める初め、十代の崇神天皇の御代に魔王が人民に対して疫病を流行らせたため、初めて神社を百八十箇所にお祀りになった。お降りになられた初めは神武天皇の即位の時にもお現われになった。神武天皇四十一年に紀伊国牟海郡に大きな熊が天下りされた。これが今の熊野本宮である。これらの事から熊野村と名付けた。同七十四年にまた八尺(二メートル四十二センチ強)の烏として示現された、善喜元年(これは仏教者によって当てはめられた、いわゆる私年号である。継体天皇十六年を指す。)には三尺(一メートル弱)の水晶の剣として顕れて今の神の蔵へと飛び渡ったという。また氏人の「ジョウ?恒」は紀伊国の先生(官位である帯刀長の異名)であり、椎の葉に粟のカシイを盛って奉った。その後、椎の木の梢に三面の鏡が顕れた。(修験道の)役行者の時には本宮にお顕れになり、伝教大師御参詣の時には新宮において禅師の聖としてご示現された。弘法大師の時には八万の金剛童子として。智証大師の時には八尺の烏、慈恵大師の時には八十万の金剛童子、飛行夜叉として、また八十千の飛竜が権現された。(熊野の鎮座は神武天皇48年、崇神天皇の代に熊野村に本宮鎮座、景行天皇の代には新宮鎮座。) 婆羅門僧正の御参詣の時には證誠大菩薩として示現された。安然和尚が仰るには、證誠殿というのは熊野権現が昔、天竺のマカダ国の賢王であった時代から崇めていた七生(七生とはこの場合は何度生まれ変わっても、という意味か)のご本尊である、と。本地は釈迦三尊(釈迦仏、普賢、文殊か)。今の時代に阿弥陀仏というのは他宗の言葉である。ご縁起に曰く、「昔、インドの霊鷲山においては釈迦牟尼と名付け、今は金剛山にあって末の世の衆生を救う為に八尺の熊として顕れる。筑紫の彦山で三尺六寸の八角の水晶として化現し、この国の白山には妙理権現と顕れ、金峯山には蔵王法喜菩薩として示現された。本地は釈迦三尊である、と。」

 吉野の蔵王権現は昔、役行者が衆生を救う為に金峰山で一千日籠居して生身の像を観ようとして熱心に祈った所、金剛蔵王がまずは柔和忍辱の姿で現れて、釈迦三尊の形にて地より湧き出でたが、行者は首をふって「未来に訪れる悪世の衆生を救おうとするならば、そのようなお姿では叶わないでしょう」と述べると、すぐさま伯耆の大山へ飛び移り、その後大勢の何かが憤怒の形相で現れて湧きいでられた。右の御手には三鈷杵を握って肘をいららげ、左の御手には五指を開いて御腹を抑え、眼は明らかに怒って魔障降伏の姿を示し、両の足は上がり下がりして天地経緯の徳を顕わしになられた。

 白山三所は妙理権現である。釈書(元亨釈書か)に曰く、はじめ泰澄法師が越前国の越智峰に棲んで常に白山に望んで「あの山の嶺には必ず霊神がおわす。私はそこに登ってお顕れになることを乞おう。」と述べた。霊亀二年(716)、四十四代元正天皇の御代、きらびやかな天女が紫雲の中を出て「霊感の時が来た、今こそお登りになりなさい」と述べる夢を見た。
養老元年(717)四月一日、白山のふもと、大野の隈筥(くまばこ)河の東伊野の原に向かい、心を集中させて読経すると夢に出てきた天女が顕れ、「この地は大徳(泰澄)の母がお産をされた所である。結戒の土地ではないが。この地の東の林泉は私が遊びとどまる所である。そこに私を移してほしい。」と仰せになると姿を隠された。泰澄法師はすぐに向かって読経すると、天女がまた再び現れて「私は天の嶺に居るといえども、常にこの林へ遊び、わが中に宿って上一人、下万民を撫でよう。大徳、しずかに聞け。日本秋津洲は神の国である。(略)私は伊弉諾尊である。今は妙理大菩薩と号する。この神岳、白嶺は私が国主であった時の都城である。私はこの日本の男女の大元である。天照大神は我が子である。(略)私の真の姿はあの天嶺にある。大徳はそこに来てこれを見よ。」と仰せになって天女は再び姿を隠した。泰澄法師は白山に登って、天嶺にある緑碧の池のほとりで読経するとたちまち、九頭の龍が池の面に生じた。泰澄法師の曰く「これは方便として顕れた姿で、本地の真身ではない。」といよいよ読経に集中すると、十一面観自在菩薩が厳かに出現された。泰澄法師は敬礼して足を拝して申すに、「像法末法の衆生として顕れて救いをお垂れになってください」と。その時、菩薩は金冠を動かし、蓮のような眼をまばたかしてこれを許した。泰澄法師が三度拝し終わる前に女体はお隠れになった。法師はまた左のほとりに渡り、孤峰に登り、一人の立派な人物に会った。手に金の矢を握り、肩に銀の弓を背負い、笑顔で「妙理大菩薩の助けである。名を山大行事という。大徳よ、まさに知りなさい。聖観自在の化身である、と。」と仰せになった。また法師は右峰に昇ると、一人の奇妙な姿の老人と出会った。誠に静かで雅な声で「私は妙理大菩薩の助けである。名を大已ジ(おなぢ、あるいはおおあなむし オオナムチと関連が?)という。西方の国主(阿弥陀仏)である。」と仰せに成って姿を隠した。これよりますます霊験あらたかであった。泰澄法師が人に語って曰く「妙理大菩薩が仰るには我が山の中の木草、一草一木も我が眷属でないものはない。一万の眷属は妙徳の降誕であり。十万の金剛童子は遍吉(普賢菩薩)の垂迹。五万八千の采女は賢牢女天(地神である賢牢地神の事か。胎蔵曼荼羅の賢牢神后か。)の化身である。」と。霊応記に曰く、「元正天皇の養老元年(717)、白山の峰にお顕れになった。禅頂三所の権現である。白山の大御前はイザナミノミコト、小白山の大行事は男神イザナギノミコトである。オオアナム小山は天津児屋根命である。また白山には七の名がある。その一つは高天原とも言う。(略)山王七社の中の客人神はこの妙理大明神の事である。」
 気比大明神は十四代仲哀天皇の御霊である。筑紫のカシイ(木篇に堅)の宮にお顕れになった。その御剣は敦賀の浦に寄り来たった。本地は金剛界の代認知如来である。また武内大臣をも共に崇めている。

 常后は神功皇后の御神である。本地は十一面観音である。皇后は新羅を退治して後は天下を治める事六十九年、聖武天皇の御代、筑前国若杦山の香椎宮に聖母大菩薩としてお顕れになった。その後、越前国敦賀に降臨された。(霊応記にあり。)

出雲大社はスサノオノミコトである。この神は魔王と語らって天下を暗闇にしようと大きな舌で覆おうとした時、化鳥が虚空より飛来して「(来の字の横棒が三本)の枝でこの舌を撫でれば霜雪のように消えるだろう。」と述べたので教えの通りにするとたちまちに消えた。この鳥は烏(からす)である。現代でもこの姿を頭に載せる。これが烏帽子の起源である。また天照大神は天の浮橋の上から葦原の瑞穂の秋津洲山(日本のこと)にお渡りに成った時、八人の天津乙女子、四人の名婦をお従えになられた。八人の乙女とは一には「目付」、二には「花髪ラ(かつら)」、三には「詠姫」(うたいひめ)、四には「舞姫」、五には「芳姫」(かたはらひめ)、六には「花姫」(はなやひめ)、七には「明姫」(あくるひめ)、八には「カヌリ姫」である。これを八人の舞姫ともいう。四人の名婦とは一には「マナギ」、二には「結姫」(むすひ(び)ひめ)、三には「連姫」(つらねひめ)、四には鈴姫である。八乙女とともに十二人の「キ子(キネ)」とも言う。五人の神楽男(かぐらお)を「五体龍王」ともいう。八人の舞女の第一の「目付乙女」をスサノオノミコトが取ってしまった為に(天照大神は)天上に高く昇られたという。スサノオノミコトは邪神と語らって国をお乱しになったため、天照大神は岩戸にお籠りになり、天下は常闇(とこやま)となった。諸神は高天原に集まって庭火を焼いて神楽を奏でた。今に香久山神楽コウ(原文は止の上に目を横にした一字 もしやコウとは講中の事か)とあるのはこれである。諸神がお集まりになられたコウである。その後、スサノオノミコトは出雲の国へお行きになられた。十月に神たちを遣わして政治を行うのは上にあげた通りである。(出雲に集まる神無月の事を述べているのか。ただしこれは出雲の御師により流布した説であり、混交があるのか。)

 立田権現は文武天皇の御代にお顕れになられた、イザナミノミコトの事である。本地は阿弥陀仏。

 諏訪大明神は神功皇后の御代にお顕れになられた。本地は普賢菩薩。山王七社の中の八王子神と三の宮神とは諏訪の上社と下社である。

 玉津嶋は衣通姫(そとおりひめ)である。(衣通姫伝説は古事記などに記される人物である。)允恭天皇の后である。(ただし、允恭天皇の皇后は別にいる。)

 厳島は女体である。シャカラ龍王(法華経序品第一に名を連ねる八大龍王の御一人)の第三の姫である。本地は胎蔵界の大日如来の垂迹である。

 西ノ宮の大明神は蛭子神である、龍王はこの方をお養い、皇后の時(神功皇后?)、力をお添えになられた。

宗門神道秘訣巻の三 終


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