ラッキーナンバー(ショートショート)
幼稚園バスから降りる子供たち。手の甲には、皆数字が書いてある。
一桁の子、二桁の子、三桁まではさすがにいないけど、みんなそれぞれ自分の甲を、誇らしげに母親に見せる。
この数字は、縄跳びの連続跳躍回数。年少クラスの目標回数は、50回らしい。
子供たちの中で一番背が高い娘の早紀が、浮かない顔でゆっくりとバスの階段を下りてきた。娘の手の甲を盗み見る。数字は「1」だ。
「おかえり」
落ち込んでいるのか、そうでないのか、ブカブカのスクールハットに隠れて表情は見えない。早紀は1が書かれた手の甲を反対の手で隠しながら、下を向いたまま「ただいま」と言った。
ーー今日もダメだったか。
がっかりはしない。縄跳びなんて跳べなくても、将来困ることはないだろう。それにそのうち、飛べるようになると思う。毎日練習している姿を見る限り、あと一歩なのだ。でも、周りが何回も跳んでいる中、一人跳べない娘を思うと、心臓がキュゥッと小さくなる。
自尊心が傷つかなければいい。周りに比べてできない自分を、ダメな自分と思ってほしくない。たかが縄跳び、されど縄跳び。子供の世界は、それだけ狭い。友達が遠くに見え、もうそっちの世界には入り込めないような、そんな孤独に取りつかれるかもしれない。取り残されないように、取りこぼされないように、必死についていこうともがく早紀の姿を想像すると「やらなくていい」と抱き上げて、連れて帰りたくなる。
お友達に手を振る力は弱かった。でも、35回跳んだお隣のさつきちゃんに、すごいね、と言えた事を誇らしいと思う。声は明らかに沈んではいるが、お友達の功績を認める姿勢は素晴らしい。
さよならのご挨拶をしたあと「どうだった?」と聞いてみる。
「1だった。今日も、ダメだったの」
お友達の姿が見えないところまで来ると、1が書かれた手の甲で、何度も何度も目をこする。
ーー泣いてはいけない。
自分に対して何度も唱えた。
ここで私が一緒に泣いたら、早紀はもっと焦るだろう。ママを悲しませたと傷つくかもしれない。気付かれないように、静かに深呼吸をしてから「今日も練習する?」と聞いてみた。
早紀は2回、大きく頷く。
ーー今日こそは跳べますように。
もやは祈りになってしまった気持ちが体中を満たす。たかが縄跳び。されど縄跳びだ。
裏の公園に行って、練習する。
まずはポールに長縄を括り付ける。反対側を私が持って、大波小波を飛ばせる。ジャンプのタイミングはバッチリだ。
問題は、縄を自分で持った時の、姿勢。あとは姿勢だけなのだ。
一生懸命跳ぼうと前傾姿勢になるもんだから、肩がうまく回せない。姿勢を正しく跳ぶことができれば、2回は必ず跳べるだろう。
「体を起こすんだよ、それさえできれば跳べるよ」
何度も同じことを口にするが、なかなかうまくいかない。教員でもない私は、縄跳びを教えるのなんて当然初めてで、どうやって伝えたらわかりやすいのかもわからない。情けなさで自分をぶん殴りたくなる。
昨日の夜、Youtubeで見た教え方を思い出して伝えるものの、あまり理解できてないようだ。なけなしにお手本を見せてみたり、ムービーを撮って見せたりするも、4歳児には難しいのか「わからない」と言われてしまった。
それどころか「ママも飛べる」という現実を突きつけるような形になってしまった。この世界で跳べないのは自分だけとでも言いたげな、絶望にも似た表情だ。早紀の世界は「縄跳びが跳べる人」と「跳べない人」で完全に分断されている。
私と早紀は今、別々の世界にいるのだ。
跳べない。跳べない。跳べない跳べない跳べない跳べない。早紀の顔は焦りに変わり、悔しさいのか、情けないのか……とうとう泣き出してしまった。
「はなちゃんも、りなちゃんも、さつきちゃんもあきちゃんもみんな跳べるの。さきだけ跳べないの。さきだけ、さきだけ」
ヒック、ヒック、としゃくりあげながら泣く。
縄跳びなんて、跳べなくても大丈夫だよ。そんなことを言いたくなる。でも早紀が望んでいるのは、跳ばなくてもいい世界ではなく、皆のように跳べる自分だろう。逃げ道を作ってはいけない、そんな気がして、下唇を強く噛んだ。
こんな時、親は無力だ。励ますことと見守ることしかできない。やるのは彼女。マリオネットのように、私の力で早紀を操作できない。乗り越えるのは彼女の努力だ。頑張れ。
「休むかい?」
目の周りを真っ赤にした早紀を、少し休ませてあげたくなった。どうせいつかはできるんだ。完成させるのは今日でなくてもいいだろう。このまま続けていると、ただでさえ削れている自信と気力がドンドンすり減っていって、早紀の気持ちが空っぽになってしまうような気がした。
「まだ、やる」
手の甲でグシグシと涙を拭う。練習は暗くなるまで続いた。数字の1はまだ消えない。
15時ちょっとすぎ。幼稚園バスが到着した。
「ママ、今日は5回跳べた」
「ママ見て、今までで一番跳べた」
「今日は30回だった」
降りるなり、それぞれの数字を報告する。
ーー今日は、跳べただろうか。
一番後ろにちょこんと座っている早紀は、隣に座ったお友達と何やら話し込んでいる。先生に促されてようやく立ち上がり、バイバイと手を振り出入口に向かった。
何人かのお友達に挨拶したあと、バスの階段をゆっくり降りる。
1段降りると、早紀が私を見つけた。
誇らしげに見せた手の甲に、書かれた数字は「2」。
それは小さな数字だが、早紀にとっては大きな一歩だ。
人類で初めて月に降り立つ戦士のように、早紀はバスから大きな一歩を踏み出した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?