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房内はるみ/詩集『窓辺にいて』 思潮社

時の螺旋階段をおりてやってくる
わたしの小さな子どもたち
噴水のまわりで あきることなく遊んでいる
あの日の秋ときょうの秋が
どこかで深くつながっているような
             (「祝福」より)

巻末の「公園のベンチーあとがきにかえて」まで読み終えたとき、公園のベンチでもう一度読むことを閃いた。白地にくぬぎの絵が描かれている表紙の詩集。外に持ち出して表紙が汚れるのを避けるため、本の表紙を外してみると、そこに現れたのは黄色地に描かれたイチョウの絵だった。ハッとした。著者の詩の繊細さの中に隠れている情熱の秘密に触れてしまったような気持ちになった。

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針のような枝先が 冬の青空をつついてる
落葉した木々の沈黙のなかに
透明な音楽がながれている
       (「冬の木」より)

クヌギやコナラのどんぐりが転がる武蔵野の公園のベンチで再び詩集をめくった。夏の終わり、秋の乾いた風を感じながら夕暮れまでのひととき、活字をたどる。公園で詩を読むということはこれまでもしてきたが、久しぶりに読んでいると、わたし自身の「センスオブワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」が呼び起こされるようだった。

乾いていた土壌にことばの慈雨が降り注ぎ、すこしずつ潤いを与えてくれるような、そんな心持ち。繊細なことばは、わたしに新たな視座も与えてくれた。

住みなれた町の もう何百回も通った角なのに
まがるということは いつでも新鮮だ
そこに思わぬ人がいたり
ふとした出来事が待っていたりする
      (「春のまがり角」より)

モンゴメリーの『赤毛のアン』「第38章道の曲がり角」の中でも、「曲がり角をまがった先になにがあるかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの」という有名なセリフがある。わたし自身がいま、人生のまがり角にいるせいなのか「春のまがり角」には勇気をもらえた。

まがった角も まがらなかった角もある
まがるたびに あたらしい自分に出会う
         (「春のまがり角」より)

わからない不安と好奇心を抱えながら、ひとは、それぞれの歩調でまがり角をまがったり、まがらなかったりしていく。そして、いままでも、これからも、それは続く。

そのときに必要になるものは何か、としばし考えてしまった。そうだ、わたしにはこころの杖となる「ことば」があると前へ進めるのかも知れない。

いま、「ことば」はチャンバラみたいなコミュニケーションツールに使われたり、「ポエム」の意味が、戯言や妄言のように使われている。それはとても哀しいことだ。

レイチェル・カーソンの著書『センスオブワンダー』(上遠恵子訳 新潮社 1996年)の中の文章が頭に浮かぶ。

「(「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」は)、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです」

詩を読むこともまた、センス・オブ・ワンダーを呼び覚ます「解毒剤」にはならないだろうか。そんな気づきが立ち上がる。

一冊の詩集を通して、カチカチだったわたしのこころや頭は払拭されていった。詩は明日へつながる力にもなる。ことばを大切に取り扱いたい。わたしは「ことば」を杖にする。

2019.9月


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