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何者でもない自分は、自分以外の何者でもない

タイトルが全てなのですが、「幸せになる勇気」を読んで考えたことです。

「嫌われる勇気」を読んだときにも考えていたことなのですが、「幸せになる勇気」を読んで、よりはっきりとしたことなので書いておきます。

この本が多くの人に受け入れられた理由は、承認欲求の強い時代に違和感を感じている人が多く、また、すべての人が特別であらねばならない様な時代の雰囲気から取り残されている様に感じる人が多いからではないでしょうか。過去と未来に囚われた現在を暮らす苦しみに悩む人が多いということでしょう。

この承認欲求の強い時代云々、と書いたときにイメージした「人」は、他の誰のことでもなく「わたし」のことでした。

何者かになっているはずのわたしは、今は特に何者でもなく、特に数年前に体と心を壊して勤め先を辞めたあとは、再就職した今でも、どこかに、何かを忘れてきたような思いがしています。

ただ、山田ルイ53世の記事を読んだり、岸見先生の本を読んだりして、少しづつ、今の自分を受け入れることができているような気がしています。

「意味のないことには意味がない」「人間は輝かなければダメ」「人生の主役になるべきだ」。考えてみれば、そんな圧力に、生まれた時から囲まれているような気がする。こういうのがつらく、しんどい人は想像以上にいると思う。

自分の人生の主人公は自分である、というのは、紛れもない真実です。自分の人生を自分の判断で生きることができれば、それを「自立」というのは、アドラー心理学。

でも、自分を判断する基準はどこにあるのでしょう。

子供の頃から、受験をはじめとした競争の中で抜きんでた成績を挙げて、いつか「何者かになるだろう」という期待という名のプレッシャーを教師や近所の人や親戚から受け、自信満々で大学に出てきたとしても、そこで日本中のクラスで一番、学校で一番、地域で一番と出会い、自分の実力がそれほどのものでもなかったことを思い知らされます。

さらに、就職で何十社もにエントリーシートを出して、断られ続け、自分の価値を見失う人もいます。

そのときに、自分を信じてくれるのが親だったらば、それは素晴らしい人生をすでに生きているのも同然です。でも、親の期待というのもあります。我が子を信じるが故に、期待をかけて、押しつぶすような場合もあります。

大学のサークルで活躍していた時に出来た恋人から、就職戦線での苦戦をもとに去られたひともいます。

会社に入った後も、出世競争やノルマ達成や他社との出し抜きや、いろいろな競争に巻き込まれ、勝ったり負けたりを繰り返します。

勝った自分を褒めたり、自惚れたり、負けた自分を恥じたり、悔しがったり、絶望したり、いろんな思いが交錯します。

アドラーが言うように、「全ての悩みは対人関係から生まれる」わけです。

自分の価値を判断するのは自分のはずが、結局、周囲から期待を受けて、それに応えなかったと失望され、の繰り返しで、自分の価値が見えなくなってしまう人生のなんと多いことでしょう。

でも、「何者でもない自分」は、「自分以外の何者でもない」のです。

どこかにある理想を求めて、自分が持っていない何か(能力だとか容貌だとか)が足らないことに、もどかしい思いをするのではなく、自分自身が持っているカード(能力とか容貌とか器量とか)で勝負するしかないことを受容することが大事なのだと、わたしも頭ではわかっているのです。

でも、やはり「無いものを欲しがる」という子供の心が抜けません。

アドラーは「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」と言ったそうです。まさに手持ちのカードでどうやりくりして、最も高い手を目指すかでは無いでしょうか。

そして、自己肯定ではなく自己受容が必要で、そのためには「肯定的な諦め」を持って、「ありのままのわたし」を受け入れ、変えられるものを変えていく勇気を持つこと、だと「嫌われる勇気」の中にあります。

わたしにとって変えられるものが何か、それを見極めるために、今、編集教室に通っているともいえます。

今日は、このディスカバー編集教室の外部講師の授業。

講師は、勇気シリーズを著した古賀文健さんです。

どんなお話が伺えるか、ワクワクしています。






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