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日本語の曖昧さが独自の文化を産んだ、というよくある言説のもう一つの答え

原里美さんという作家がいます。

今は、作家と編集者、ライターを兼務されているようですが、なかなか不思議な世界を描きだす方です。

その方のnoteをフォローしていたら、最近はインスタグラムで小説を発表しているというではないですか。

インスタグラムで小説。

なんて編集者らしい発想なのでしょう。

一見、関係のないものを掛け合わせて新しい切り口を生む力。

それこそ編集ですよね。

9コマに言葉を当てはめるので短編です。あるシーンを切り取ったものとも言えます。でも、それが、読む順番を変えても成り立つとしたら、かなりのテクニックだと思いませんか?

原さんは、この小説の形式について、こう語っています。

この形式で小説を書いていると、言葉というもののあいまいさを感じます。
順番を変えて再構築しただけで、意味が反対になってしまう。
不思議な素材で工作をしている気分です。

こういう言葉をブロックにして並べ返すという「遊び」ができるのは、言葉の捉え方に理系センスがあるからではないかなという気がします。

原さんは、東大の言語と脳に関する研究をしていた研究室の出身なので、そこで、言葉をブロックで繰り返すキンカチョウの研究などを見ていたせいかもしれません。知らんけど。

物語という形式は、源氏物語から始まった、などという話もありますが、きっと言葉を話すようになって、思考の抽象度が上がってきたときに、ホラ話だったり、物事を間違って伝えたりしたことから出てきたんじゃないかと思います。つまり、書かれていない物語はたくさんあったんでしょう。

それが、文字ができて、媒体(石とか竹とか紙とか)ができて、印刷という革命があって、デジタルになって、伝え方が変化していった。

一方で、物語の形式や様式も社会の変化に伴って変わっていった。

日本では、明治になって坪内逍遥とか二葉亭四迷とかが英語のnobelを小説と訳して、夏目漱石が今の小説のほとんどのスタイルを作った、という感じなんじゃないでしょうか。

でも、原さんが見せた、回文のような小説を1コマの絵に載せてみせるという形式は、新しそうです。

これも、媒体の変化とスタイルの変化ですが、そこに載せる日本語というのは、どれほど新しいのか、というと、実はそう新しいものでもないようです。

原さんは、言葉の持つ曖昧さ、と書いてますが、私は日本語の持つ曖昧さなのではないかという気がします。雰囲気を伝えるには適するけど、ロジックを描きこむには物足りない言語。その曖昧さ。

それで、このスタイルが、私たちをどこに連れてってくれるのか。

そこに期待します。



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