"縵才"とは?-古典漫才の復活と縵才のはじまり-
2021年3月13日,「縵才」は縵やかにはじまった
高円寺はあいにくの雨。結成5周年を迎えたばかりの若手漫才師には到底似つかわしくない「縵才のはじまり -漫才の歴史と古典漫才の復活- 」という仰々しいタイトルの単独ライブ
座・高円寺2の舞台には,雨男のおせつと,雨にも雨男にも負けないお調子者のきょうたがいた
"縵才のはじまり"のはじまり
2021年2月13日,このライブのためにはじめたYouTube番組「結成5周年への道 」の第85回の放送で,おせつときょうたははじめて「縵才」という言葉を口にしている
こうして世に放たれた「縵才」という言葉だったのだが,その後は「結成5周年への道」の最終回でわずかに触れられただけで,この言葉の意味が明かされることはなかった
"漫才"の歴史と"古典漫才"の復活
この単独ライブには,「古典漫才の復活」という意味深なサブタイトルがつけられている。「縵才」については頑なに口を閉ざす彼らだったが,「古典漫才」については饒舌に語っている
これらの発言を通して,古典落語のように昔の名作漫才を継承しながら,自分たちでも後世の漫才師に継承してもらえるようなネタを作っていきたいという彼らの思いがうかがえる
「古典漫才」という言葉は,「古くさい漫才」という少しばかにした意味で使われることもあるが,彼らが言っているのはそのような漫才のことではない。ストーリーがあり,オチが綺麗な漫才のことだ
「縵」という字には,「ゆるやか。ゆったりとした」という意味がある。「縵やか」と書いて,「ゆるやか」と読む。落語をみるかのように,ゆったりとした気持ちで味わうようにしてみる漫才,それが「縵才」なのではないだろうか
"縵才"のはじまり
2021年3月13日,「縵才のはじまり」という名の単独ライブで披露されたのは,「漫才」であり,「縵才」でもあるのだと思う。そして,このライブの中でついに,「縵才」という言葉に込められた思いを語ることとなる
きょうた「落語と違って漫才は,昔からある台本をやっている人がいないが,いとしこいし師匠のネタなどもやってもいい。いやむしろやったほうがいい」
おせつ「漫才は『テレビ芸』として発展してきたために,使い捨てのネタや尺が短いネタが主流になった。その結果,『舞台漫才』の発展は止まっていて,長い尺でゆっくりみてもらえる『舞台でおもしろい漫才』にはまだまだ可能性があるのではないだろうか。『漫』というに字は『いい加減な』とか『ばかげたかんじの』という意味が含まれているようだが,これから我々が取り組む舞台の漫才は,『縵やかなもの』『残っていくもの』『糸で紡いでいくようなもの』になるのではないか。『そんな"新しい漫才"がはじまるんじゃないか』『そんな"縵才"をはじめようじゃないか』という思いで勝手に字を変えた」
きょうた「漫才作家さんにも力を貸してもらって,長い尺の漫才を仕事として成立させることができれば,『漫才作家』という職業を目指す人も出てきて,"縵才"はどんどん発展していくと思う」
そしておせつときょうたは,大瀬ゆめじ・うたじの「魚の学校」という"古典漫才"を披露した
あきらめかけていた"古典漫才"の夢
私が,彼らとほぼ同じ意味で「古典漫才」という言葉を使い出したは2010年ごろのことだ
それからというもの,「"古典漫才"をやらないか」と何組の漫才師に声をかけてきただろう。ほとんどの漫才師が,「"漫才"というのはそういうものではない」という反応だった
調べてみると,2017年7月2日と2018年1月13日におせつときょうたの二人にも声をかけていた。多くの漫才師とは違い,「似たようなことを考えている」という反応だった。そのときは短いやり取りで終わってしまったのだが,「"古典漫才"をやってくれるとしたら彼らだろうが,彼らでさえもそれを形にすることはできないだろう」と思った
あれから3年がすぎ,「"古典漫才"に取り組んでくれる漫才師などどうせ現れないだろう」と半ばあきらめかけていた私は,実際に取り組みはじめている漫才師がいるということに,最近まで気づくことさえできずにいた
危うく"はじまり"を見逃すところだった。間に合って良かった。"縵才"のはじまりに。私にとってそれは,あきらめかけていた"夢"のはじまりでもある
"縵才のはじまり"を終えて
「縵才」とは一体なんなのか。このライブですべてが明らかになったわけではない。語り尽くせない(「話し忘れただけ」という噂もあるのだが)話がまだまだたくさんある
オンラインサロン(『学びのプロセス』)では恒例の"反省会のような打ち上げ"でも,「将棋のネット配信が『時間無制限で流せる』という理由でかなり盛り上がっているように,長い尺の『ネット(網)漫才』という"縵才"にも可能性があるのではないか」と語っている
こうして,"漫才"をことごとく「糸」に結びつけることによって,「さんずい」を勝手に変えてしまった責任を取ろうとしているようにも見える
緩やかに紡ぐ糸が織りなす"緩才"の未来
結局のところ,このライブで披露されたのは,「縵才」だったのか,それとも,「漫才」だったのか
その答えは,これからのおせつときょうたが,いや,これからの私たちが,みんなで紡いでいくものなのだと思う
ひとりではできないのが「漫才」だが,「縵才」はふたりだけでは完成しない。今日私たちが紡ぐ糸が,緩やかに,でも着実に,「漫才」と「縵才」の未来を作っていく
縵才はまだ,"はじまった"ばかりだ
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