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うつ病の私が見ている世界 第11話

 深夜二時に目覚めてから、一睡もできずに夜が明けた。
「夜明けぜよ」のコメントとともにSNSをアップした。
 と言っても、ここのところ深夜3時には目が覚めて、普通に生活しているので、それほど新鮮味はないのだが。
 生活リズムが狂ったまま、それが日常になっていた。

🍎黒いフラワーロック、潜る影

 これは幻視だ。
 自分でもそれはちゃんと理解しているのだが、それでもクッキリと見えてしまう。
 喫茶店の四隅には造花を活けた花瓶があって、そのうちの一つ、造花のガーベラをふんだんに盛った楕円の鉢が、キッチンからよく見える。
 赤いガーベラ。
 それがどうも、黒いフラワーロックに見えてしまう。
 フラワーロック。
 昭和の終わりに発売された、サングラスをかけ、エレキギターを持った陽気な向日葵の玩具である。周囲の音に合わせて、うねうね動く。当時、大流行した。
 そのフラワーロックが大量に、楕円の鉢に突っ立っている。
 頭を振って、仕事に戻る。
 すると天井から吊り下げられた、巨大なコーヒーカップを模した一枚の鉄製アートの取っ手部分に、笑顔の阿佐ヶ谷姉妹がぎゅうぎゅう嵌め込まれている。
 そう、あれも幻視だ。
 頭を振る。
 チェシャ猫みたいに消える阿佐ヶ谷姉妹。
 終始、パート中はこんな具合で、何かが見える。
 その何かに感情はないし、その何かは、特に何もメッセージを伝えてはこない。
 一度しか見えない時もあるし、黒いフラワーロックのように、何度だって見えてくるものもある。
 ただ、共通点があるとすれば「なにかしらの顔面を持ったものが見える」ことだ。 
「内海さん、大丈夫?」
 主任が声をかけてくれた。
 私のうつ病が(もしかしたら統合失調症かも知れないが)判明しても、私を雇い続けてくれる優しい主任。短時間勤務だが、ガッツリ週5でシフトを組んでくれる。
 飲食店特有の、慢性的な人手不足だ。
「あ、大丈夫です」
「さっきから、頭振ってるからさ」
「なんかちょこちょこ見えるので…」
「無理しないでね」
 手にはシフト表を持っていた。
 あ、シフト減らされちゃうのかな。
「この日、内海さんお休みなんだけどさ、悪いんだけど、オープン出られる?」
 上目遣いの主任。
「あ。はい、出られます」
「なんかさぁ、この日で森口さん辞めちゃうんだ」
「えっ、森口さん、お辞めになるんですか」
「ちょっと、嬉しそうな顔しないでよ」
 森口さん。今の喫茶店が居抜きで入居する前の喫茶店の頃から働くベテランパートさん。ちょうどフラワーロックが大流行した頃からである。
「森口さん居ると、ペア組んだ学生ちゃん、長続きしないじゃん」
 と、指をクロスさせる仕草をして、
「今回も、園田ちゃんとペアでシフト組んでたんだけど、大げんかになっちゃったらしくてさ。この日、園田ちゃん、森口さんと組まされるなら辞めるって言ってきたのよ」
 園田さん。笑顔の可愛い、仕事の早い女の子。
「ハァ」
「もう最後だからって言ったんだけど、もう嫌なんだって」
「まぁ…森口さん、難しいですからね」
 かくいう私も、八ヶ月ほどペアを組んで、ペア解消を主任に直訴した過去がある。
 意地でも前の店のやり方を変えないし,Uberの注文商品を間違えるし,店が混んでくるとあからさまに不機嫌な接客をする。ミスを下手に下手に伝えても,自分のせいではないと大騒ぎする。ランチタイムは忙しいからと出勤拒否で,閉店作業は老人を夜に働かせるのは非道だと言い張るので,朝だけしか出ない。
 そんなベテランパートさん。
「こっちから森口さんに辞めろとは言えないから、様子見てたんだけど、もう70越えたし、若い子と組むのも、Uberの伝票操作も難しいから、辞めますってさっき森口さんから電話あってさ」
「あら」
「引き留めなかったよ」
「はい」
「でね、ラストの日なんだけど,悪いんだけど,内海さん,この日だけ森口さんと出てくれないかな」
「えっ」
「日程的には大丈夫なんだよね」
「あ,はい,日程的には」
「じゃ、よろしくお願いします」
 そういうことになってしまった。

 森口さんとのペアでパートをする前夜,キッチンで洗い物をしていると、横に黒い影が立った。立つと同時に,黒い影はゾロリと壁に潜り込んだ。
 今までの幻視とは違う。
 久しぶりの幻覚だった。
「ママ,明日の遠足にこれ着て行ってもいい?」
 壁を見つめて固まっていると,三女がキッチンにやってきた。
 手には、去年買った、フリルのついたピンクのレギンスを手にしている。
「それ,レギンスじゃん。遠足は、ズボンでってプリントに書いてあったよ」
「だって,みんな可愛いの着ていくって言ってたよ」
「でも,スカートとレギンスは禁止だって」
「なんで」
「それにそのレギンス,もうサイズが小さいよ」
「ひどい,デブだっていう気だ!」
 三女が泣き声をあげる。
 夫と、長女と次女もやってきた。
 ふくよかな体型の三女は,言葉にとても敏感だ。
 日頃、とても気を遣っている。
 だが,その時の私は,明日のシフトや潜り込んだ黒い影に,正直疲れていた」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「嘘だ!これ130だもん、私のサイズじゃん!」
「じゃあ履いてみな、きついと思う」
「うわあああん」
 長女が間に割って入って、
「ママ,その言い方はないんじゃない?」
 と私を睨み、
「それじゃ、ママ、おばあちゃんと同じだよ」
 力強く言った。
「え…」
「おばあちゃんがママに言った言葉でママも傷ついたならわかるでしょ」
 夫が長女を静止した。
 全身がワナワナ震え、汗がどっと噴き出した。
 三女が大好きな長女は、三女のことになるとムキになる。
 それは充分理解している。
 だが。
「おばあちゃんと同じ言い方だよ」
 義母と同じ。
 十年以上言われ続けた、母親失格、女失格、嫁失格と、同じ?
 すると夫と次女が、
「同じってことはないよ」
「同じじゃん!」
 また、黒い影が立った。
 緩慢な動きで、黒い影がズルズルと壁に潜り込んでゆく。
「いい加減にして!」
 私は、影が消えた壁に向かって声を張り上げた。
 長女が目を剥いた。
 叫ぶように三女が泣き出した。
 次女がそっと、私の背中に手を添えた。

 翌朝、デニムにお気に入りのシャツで遠足に行く三女を見送ると、夫が声を掛けてきた。
「大丈夫?昨日のは、おふくろとは全然別物だったと俺も思うよ」
「でも、可哀想なことをしちゃった」
「レギンス禁止なんだし、良かったんじゃない?」
 今日に限って時差登校の長女は、まだ部屋から出てきていない。
 あれから、デニムを選ぶなら、上着こそ好きな服を着ていくことで納得した三女はけろりと笑顔になり、長女だけは不貞腐れた表情で、余所余所しく部屋に戻ったきりだ。
 長女の部屋に、
「ママ、パート行ってくるね」
 と声を掛けて、パートへ行った。

 パートはあっさりと終わった。
 森口さんも私もあまり会話せず、淡々と業務をこなした。
 帰り際、これまでのお礼を伝えたが、まるきり無視をされただけで、それ以外、本当にすんなりと時間を終えた。
 帰り道、自転車で坂道を下っている時、ふと気がついた。
 そういえば今日、なんの幻視も見なかったな。
 気づいた瞬間、ハンドルが揺れた。
 派手に転んで、車道の隅に転がった。
 車通りの少ない道だったのが幸いだった。
 犬の散歩をしていた婦人が駆け寄って、自転車を起こすのを手伝ってくれた。
 午後からは雨が降る。
 そんな天気予予報の出ている日だった。 

第12話に続く

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