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不安が募るアニメ化企画

 1996年の9月26日、小学館の子供向けコミック誌であるコロコロコミックの編集部が「ポケットモンスター 1996〜1998連動企画書」の一つとして、ポケモンのアニメ化企画は任天堂に提出された。
 提出したのは、当時、コロコロコミック(以下、コロコロ)の副編集長をしていた、久保雅一氏である。

 コロコロで第二次ミニ四駆ブームを仕掛け、第一次以上の成功をもたらした彼は、ゲーム業界ではあまり注目されていなかったポケモンに無限の可能性を感じ、別冊コロコロコミック(以下、別コロ)で「ふしぎポケモンピッピ」(一部では『ギエピー』と言われている)という漫画の連載を始めるだけでなく、ゲームフリークのとある社員が入れた幻のポケモン、ミュウのプレゼントを仕掛けたり、青バージョンを通信販売するなどして、空前の大ヒットを牽引してきた人物である。

 そんな彼が、このポケモンブームをさらに後押しするため、編集長からの内諾を得た後、まずはポケモンのゲームを制作した田尻智氏らゲームフリークや、共に開発を行ったクリーチャーズの創設者である石原恒和氏、そして当時、版権管理の窓口業務を担っていた任天堂といった関係者に、それとなく聞き回ることにした。
 その結果、田尻智氏らゲームフリークが「アニメのスタッフがゲームをして、ポケモンを愛してくれる」ことを条件に了承したいと考えていた一方、任天堂とクリーチャーズの石原恒和氏は、ポケモンをアニメ化することを渋っていたことがわかった。

 というのも、ゲームが映像化される際、原作にある雰囲気が尊重されないことが多かった。
 漫画原作のアニメ化作品でもたまに起きることではあるが、「鉄腕アトム」から幾月年、原作を尊重しようという気概が現れてきた漫画とは違い、誕生からまだ歴史が浅かったゲームに関しては、漫画以上にそういうことが多かったのだろう。
 また、たとえ原作を尊重した作品が作れたとしても、視聴率の不振やスポンサーの事情など、様々な不測の事態で番組が終了すれば、原作であるゲームの人気が一気に下がり、ゲームそのものが、子供たちの前から消えてしまうことすらある。

 こんなことが、エンターテイメント業界では日常茶飯事であることを、もちろん任天堂やクリーチャーズが知らないわけがない。
 何より、クリーチャーズの石原氏はかつて、テレビ番組のプロデューサーをしていたし、偶然にも任天堂は、1993年にスーパーマリオをハリウッドで実写映画化した「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」の興行不振で痛い目を見たばかりだ。
 だからこそ、ポケモンの中核を担うその2社は、問題が起きたときのリスクが高いアニメ化に対して、回答を渋っていたのである。

 しかし、そこは「ドラえもん」をお茶の間に浸透させた小学館、その中でも、様々なホビー商品や子供向け漫画を扱ってきたコロコロの副編集長である。
 彼らの不安を払拭するため、ある秘策を用意することにした。
 そのヒントとなったのは、ちょうどテレビアニメが放送され、男の子たちを夢中にした、第二次ミニ四駆ブームである。

 To Be Continued...

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