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本物にしびれる

前回は、株式会社 致知出版社 藤尾秀昭社長の二宮尊徳氏に関するビデオ講話から感じたことをテーマにしました。二宮尊徳氏の、目の前のご縁と機会に集中して取り組む姿勢が、成果を上げて生成発展する生き方につながったのではないかという内容でした。

同講話から思いを新たにしたことの2つ目は、「本物にしびれる」ということです。
同講話では、次のようなお話がありました。

二宮尊徳の人生は、困難な運命に出合って波頭をあげた。
人間の背中には渦が巻いている。渦の大きさが器の大きさである。渦には、人から与えられるものも含まれるし、体験から与えられるものも含まれる。本物に出合うことで自分の渦が大きくなる。

マキャベリは「ビルトゥ(力量)は、運命という岩にぶつかってその波頭を高くあげる」ということを言っていた。岩がなければそのまま行くところを、困難な運命という岩に出合うことで、波が高く打ち上げられる。

人間は本物に出合わなければ本物にならない。よって本物を求めていかないといけない。大きな魂の人に出合わなければ、自分の魂が大きくならないとも言える。

安岡正篤先生は、人間は何にしびれるかが大事だと言った。何にしびれるかによってその人は決まる。例えば、中江藤樹は論語と王陽明にしびれていた。人間は本物にしびれなければならない。自分の人間性、人格を高めていかない限り、運命は発展していかない。

二宮尊徳は、自身がしびれる対象が変わっていって、人間性を高めていった人である。少年期に、「大学」(薪を背負いながら読んでいる本)という本物の本に出合った。「大学」にしびれ、身体にしみこませるように読んだ。

そして、大久保忠真(小田原藩主)が二宮尊徳を引き出した。大久保忠真に出合って背中を叩かれて、日本の二宮になっていく。大学にしびれて、大久保の殿様に出合ってしびれる感性があった。

何に「しびれる」か。しびれているものの中身が自分の人格、運命を決めていく。だからこそ、常にしびれるものを持っている必要があるし、しびれるものの中身を高めていくことが大切だというわけです。

今しびれているものは何か。大事なものにしびれているか。
日々、自分にこのように問いかけていきたいと思いました。

前回、「分度」の考え方について取り上げました。「分度をわきまえることが大切。分度を超えて何かやったら人間は滅びる」というわけです。偽物にしびれてしまうと、偽物のご縁で分度を超えてしまうのだとも思います。自分に適したご縁と出会うためにも、二宮氏のように本物にしびれることが大切なのだろうと思います。

二宮氏は次のような言葉も残しています。

忠勤を尽くして至善と思うものは忠信にあらず。忠勤を尽くして報徳と思うものは忠信なり

ざっくり読み解くと、「一生懸命働いて、自分はよいことをしていると思うのは、真心を尽くしているとは言わない。一生懸命働くことで、恩に報いることだと思う人が、真心ある人だ」ということです。二宮氏からは、出合った本物にしびれて、その恩に報いるという一貫した姿勢が感じられます。

3つ目は、「足るを知る」ということです。

ないものねだりをせず、あるものの中でやりくりする。そして、出てきた余裕の中から再投資して地道に穀物を増やしていく。二宮氏の取り組みは、シンプルにそのことの繰り返しだと、改めて感じました。

前述の「大学」では、「修身」が大事だと言っています。「修己治人」、自分も修めてない人は人を治められない。己を修めてはじめて人を治めることができるというわけです。二宮氏は、桜町領の立て直し中は日々ごはんと汁だけをすすっていたそうです。そこまで極端でなくとも、「足るを知る」の先に修身があるのだと思います。

ないものねだりの見栄を張った享楽や、無謀な資源調達をしての事業投資などは、必ずどこかにひずみを生んで頓挫するのだと思います。皆が足るを知って周りを気遣いながらかかわり合い、目の前の役割を務め上げることで次第に豊かになっていく。二宮氏が大切にしていたことの実践は、今を生きる私たちにとって大きな示唆・ヒントがあると感じます。

ちなみに、荒廃した桜町領でごはんと汁だけをすする「足るを知る」を皆に説いていた二宮氏も、月に3日は贅沢して飲み食いすることを促したそうです。やはり、「足るを知る」日々の中にも、いわゆるモチベーション持続のために自分を喜ばせる多少の贅沢は必要ですし、いざということへの投資も大切なのだと思います。

<まとめ>
本物を求めてしびれることで、人生の波頭を上げていく。

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