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「七情」を知る

先日、私が参加している「知心会」の1月の定例講に出席しました。「知心会」では、ありのままの己の心を観ながら仲間と共に研鑽する機会の一環として定例講があります。1月の定例講にて感じたことをテーマにし、私なりの見解と解釈をまとめてみます。

定例講では、「七情」について紹介がありました。次の7つです。

「喜」よろこぶ
「怒」いかる
「哀」かなしむ
「楽」たのしむ 
「畏」おそれる 
「恩」おん
「仇」あだ

私たちには、木の年輪のイメージで、中心から外に向かって順に「魂」「観念」「感情」「五感」があるのだそうです。七情は、感情の部分です。

例えば、私たちは何か熱いものに触れると、「熱い!」と触覚(五感のひとつ)で感じます。ここから、熱くて「嫌だ」「腹が立つ」「つらい」と「怒」や「哀」などの感情が生まれ、それに反応して熱いものから逃げたりはねのけたりします。普段の仕事やいろいろな活動などで経験することに対しても、これと同じ構図が当てはまるというわけです。

つまりは、人や出来事と出あったときに、「怒」や「哀」といった感情が生まれ、その感情のままに反応するだけだと、その経験から逃げたりはねのけたりするだけの生き方になるということです。

もちろん、身の危険を確保するために、そこから避難するべき出合いもあります。しかし、魂=心が本当は何を求めているのかが大切になる。もし、自分が「こうなりたい」と心で決めたことがあり、それに向かうプロセスで通るべき関門であるなら、一時の感情に左右されてそのまま行動に反映させるのではなく、心がそれを求めているか、心が良かれと思って動いた結果受けとめるべき試練なのか、心に聞いたうえで行動することが必要だというわけです。

そして、それを妨げるのが「観念」です。「固定観念」と言うほうが分かりやすくなります。

観念は、車を運転しているときの、埃や塵で汚れたフロントガラスのようなイメージだと言います。フロントガラスが曇っていると本来の景色が見えなくなる、だからきれいにして本来の景色を見ようとする必要がある。この曇りが観念というわけです。本来の景色を眺めるためには、固定観念を取り除く必要があります。

私たちは教育を受け、いろいろなことを経験し、様々な学びをしながら生きていきます。この学びが固定観念として固着化すると、その固定観念をもとにした感情ですぐに何かを「よい」「悪い」とジャッジしてしまう可能性があります。場合によっては心が本来選ぶべき選択に至らないというわけです。

当日の講和の中で、次のエピソードが印象的でした。

自分が師と仰いでいる人は、他人に対して腹を立てることもない。「なんでそんなに腹立てずに済むんですか」と質問したことがある。その質問への回答は、「よくそんなに腹立ててられるな。自分が応援したい人のことに時間を使ってたら、腹立つ人、自分が応援したくないような人に対して使う時間がない。腹立つ人に時間を使うということは、君が暇というこや」だった。このエピソードを聞いて、自分はまだまだ自分の魂に沿って動けてない、自分の魂の声を聴けてないと省みた

私たちは、なかなかこのようになれるものではありません。そのうえで、そうなっていきたいと思うかどうか、なっていなければなっていないことに気づき、自分を省みて行動を少しずつ変えていくことが必要なのだと思います。

感情が動くこと自体は止められないし、それを楽しんでよい。感情が動くからこそ生きてて楽しい。そのうえで、自分を中庸に戻すことが大切。そして、魂がどう言っているのかを聞く。

実践的な例をひとつ挙げると、寝る前にひと呼吸置く時間を習慣化することです。

今日いろいろなことがあった。その都度、「喜」「怒」「哀」「楽」など感情が右に左に振り切れた。数分間でも時間をとって、そのことから離れて、自分をリセットさせてニュートラルな中庸にして床に就く。明日に持ち越さない。今日楽しい、あるいは哀しいことがあって酒におぼれたが、二日酔いで次の日に持ち越すことはしない。

「私たちはみな菩薩である。真理を追求する過程において七情を大いに楽しむべきである」
定例講で出合った言葉です。

魂の声に沿ったうえで、七情を楽しめるのかどうか。
普段の生活に取り入れたい視点だと思います。

<まとめ>
七情に引っ張られるのではなく、真理を追求しながら七情を楽しむ。

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