見出し画像

夢の設定

自分の夢がよく叶うようになった。叶えるために何か努力をしているわけでもなく、いつかその時が来たら叶うだろうぐらいの感じでいると急に横からスッと入ってきて、気がついたらもう叶っている。風景画を100枚描いたら展示会を考えようと思っていたら、3ヶ月後にはもう叶っていた。あんなに自分の曲を広めるのに必死だったのに、たまたま住んだ場所で作ってほしいと言われた曲は、歌を覚えたいと言ってもらえるほどになった。そうなっているのは、この街の地域性やマッチング性もあるだろう。だけど一番の理由は、私が自分の夢を設定しなくなったからだと思っている。

私は夢を追いかけるのが好きだった。やりたいことがない時期なんてないくらい常に何かしらの夢を持っていて、それを叶えるために走っていた。今思えば、単なる躁状態だったのかもしれない。夢を設定してそこまで走り続けている状態は、自分の中には「成功」という一本だけの道しかなく、人生を予定調和で過ごしているのだと気がついた。その設定のせいで、成功以外の道は全部失敗になるし、設置場所が遠いと実現までに時間がかかるし、外れられないから窮屈にも感じてくる。ありがたいことに私はいくつも夢を叶えさせてもらったけれど、その間にあったたくさんの小さな夢を見落としてきてしまったと今では感じている。夢のゴールを設置したコース外にあった、色んな出来事を。だから急に私の夢がポンポンと叶い始めたのではなく、実際は何が起きても成功だと感じるようになっただけなのだろう。叶えようとすると実現するまでは失敗だと感じるけれど、何にも叶えるつもりがないと色んなことが叶っているように感じてしまうという、何とも皮肉な構造だ。

人が将来の夢みたいなものを見るようになったのはいつからだろうか。将来のために勉強するみたいなシステムはここ数十年の話で、それまでは工場で働く人間が大量に必要だったから、平均的なことができるようにするために学校が育成していた。いつしか平均化教育は終わったけれど、代わりに将来の夢という錘を持たされて、叶えられるまで頑張るか、叶えられずに諦めるかのどちらかを選択するコースがいつの間にか設置され始めた。その錘は、自分を強くするためにしばらく役に立ったりもする。でも重たいものをずっと担いでいると疲れるように、どこかで降ろさなければ身が持たない。降ろしてしまうと自分には何もなくなってしまうんじゃないかと怖くなる。ゴールが設置されていない道を、どこへ向かって走ればいいのか分からなくて怖くなる。でもそれは予定調和な人生コースを走ってきた証拠で、道が一本しかないとても窮屈な場所だ。錘を外してコースを抜け出た世界は、実はとんでもなく広くて、面白いことが無限に転がっている。自分が知っている世界の狭さにびっくりするかもしれない。夢とは何だったのだろうかとさえ感じるほどに。自分の脳みそ内で描くものの小ささにある意味安心して、今では惑うことなくゴールのないコースの外へ踏み出せている。

だから私は夢がよく叶うようになったというよりも、夢がなくなったのだろう。特に今、叶えたいことはない。あ、料理をよくするようになったから大きな冷蔵庫がほしいかな。でもそれはそのうち叶えられると思う。これは夢とは言わないか(笑)今あるのは事実だけ。起きていく事実を受け止めたり、流したりしながら、ただ日々を過ごしている。予定調和な人生もゲームをクリアしていくみたいで面白いけど、そうではない世界の面白さを知ってしまった今ではもう戻れない。夢の設定をしている場合ではない。毎日美しい街を見ていたら風景画を描き始めて、曲を覚えたいという人たちが現れて、展示会が決まって、気がついたら市長に会っていた。こんな面白い世界でわざわざ自分のゴールを決めて、道を狭める必要がどこにあるだろうか。ゴールを決めていた私なら、これらは全て失敗のカテゴリーに入っていたと思う。風景画を100枚描ききっていなければ、曲がSNSでバズっていなければ失敗だった。だけど今では風景画を気に入ってくれる人が一人でもいれば、曲を覚えたいと言ってくれる人が一人でもいればとんでもないサプライズだ。だって全く予定していなかったから。バズってほしくて作った方がいい結果は出るかもしれないし、その時の達成感は大きなものかもしれない。ただこっちの方が簡単に自分をハッピーにできるというだけ。自分の枠の中で欲しがるものよりも、突然もらうものの方がずっと嬉しかった。夢なんてなくたって大丈夫。叶わなくても大丈夫。それよりももっと楽しいことや嬉しいことは周りでたくさん起きている。あとは自分が気づくだけだ。

この記事が参加している募集

#この経験に学べ

54,579件

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!