近づくことのできない自然へ近づこうとするもの
少し近所から離れた場所でのインプットをしたいと思い、熱海にあるMOA美術館へ行くことにした。まさか旅行で来ていた熱海がこんなにも近場になるとは思いもせず、旅行客と共に久しぶりに降り立った熱海駅はなんだか新鮮。観光に来たわけではないため、マクドナルドでちゃちゃっと昼食を済ませ、バスへと飛び乗る。山のふもとにある美術館を目指して、傾斜45度以上はありそうな坂道をぐんぐんと登っていく。駅から近そうだったから歩いて行こうかとも思っていたけれど、これは歩かなくて正解だった。
辿り着いた建物が美術館と思いきや、入り口の先には長ーい上りエスカレーターが伸びている。大江戸線と地上を繋ぐエスカレーターくらいある。進むにつれて暗く、濃くなっていく青いトンネル。深海のような、宇宙のような、今までいた世界から遠く離れていくよう。途中には万華鏡が投影された円形ホールがあり、一体どこへ連れて行かれるのかとワクワクする。
トンネルを抜けると、景色は一変。熱海の海を一望できる広場に出た。伊東はあの辺りだろうか。同じ海だけど、熱海はもう少し都会の香りが入り混じっている。
今度こそ辿り着いた美術館のエントランスには、青い空や青い海が反射し、光と影を美しく演出している。作品を見る前から、作品を見ているような気持ちになった。美術館は展示品だけでなく、その建物自体も楽しみの一つだ。
美術館のことばかりで、なかなか展示品まで辿り着けない(笑)常設展示も素晴らしかったけど、それを書いていると本題まで長くなってしまうため割愛。
今回のお目当ては、吉田博氏の木版画。MOA美術館のホームページで初めて名前を知り、前情報も全くなしに来てみた。私は美術館へ行く際、あまり内容を調べない。今まで名前も知らなかった作家から何かを感じ取った時こそ、自分では開けなかった新しい感性をこじ開けるきっかけになったりする。だから私は私の直感を信用しているところがあり、今回もその直感に任せて訪れてみたのだ。
そして1枚目を目にした瞬間、私は息をのんだ。そのあまりにも美しい描写に。滑らかなタッチに淡い色使いが相まって、切り立つ山々からは険しさではなく、どこか温もりを感じさせる。吉田博氏は自然をとても愛でていたのだろう。木版画は平均30回、多い時は100回も摺られているらしく、その何度も重ねられた色からは、少しでも自然に近づこうとする探究心が伝わってくる。ただ色を映し出すのではなく、色のさらに奥の色を掴み取ろうとするような描写。
美しいものは感じ取りやすく描きやすい。だからこそ、その認識している美しさを絵で越えることは難しい。というよりも私はできないと思っている。自然界にある色が最も美しく、絵はなんとか近づこうとするだけで、決して再現することはできない。むしろ全く近づけない完全なる敗北感と共に、絶対的な存在である自然への敬意が増すばかりで、それでも描きたくなってしまう自分はその魅力に取り憑かれてしまっているのだと諦め、また懲りもせず描くのだ。
吉田博氏の作品に私が心を打たれたのは、そんな越えられない自然の美を、自分なりの美へと落とし込み、再構築しているからだった。私がやりたくてもできないことだ。そこへ到達するためには、まだまだ自然への敬意が足りないのだと思っている。
自然の中にいると、人間だけがこの世界と混ざり合えていないのを感じる。考える能力を手に入れたことで文明が発達し、食物連鎖の頂点に立てたかもしれないけれど、その代償として自然との、現実との距離が開いてしまった。将来について悩んだり、存在価値を問いたりするのも、現実との距離が開いてしまった弊害だ。だから作品追求のために、より自然へ近づこうとする画家が世捨て人のようになっていくのは自然であり、そうしなければ近づけないほど人間は遠い距離にいる。一致はできないけれど、少し近づいた狭間の場所で、画家は自分にしか見えていない景色を映し出す。吉田博氏の目から見えていたこの世界は、私が最初に見た作品で息をのんだように、それはそれは美しく映っていたのだろう。
展示を見終えて、冷めやらぬ余韻をこのまま持ち帰りたいと思い、全木版画集を購入。昼間に海鮮丼ではなくマクドナルドにしてケチったのは、きっとここで画集を買うためだったのだ。私が画家として持つ価値観は間違っていなかったと背中を押してもらえたこと、そして、さらなる自然への深みを追求するヒントを与えてもらった一日だった。
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