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意味を付ける人

朝起きて、コーヒーを淹れて、観葉植物に葉水をして、洗濯機を回しながら、文章を書く。私の朝のルーティーンだ。脳みそが一番新鮮な朝一に文章を書くと、身体の調子がいい。文章の内容の調子はその日によるから、どこにも見せずに消すこともよくある。この文章ももしかしたら消すことになるかもしれない。それはまだ自分でも分からない。完成度はあまり重要ではなく、私は私の中から何が出てくるのかを楽しんでいる。そんなことを考えていたのかと驚くこともあるし、ボキャブラリーのなさに幻滅することもある。こんなことをして何の意味があるのかというと、特に意味はない。ただ感じたことを言葉に置き換えて並べているだけ。誰かのために書いているわけではないし、お金になるわけでもない。じゃあ何で書くの?と聞かれれば、身体の調子がいいからとしか言いようがない。


人は何かをする時に、それに対してどんな意味があるのかを考えたりする。意味なんてないと思えば、やらないでおくかもしれない。でも、自分が意味があると思ったことしかやらないでいると、何かになったかもしれない可能性を自ら潰してしまう時がある。自分で意味がないと思っていても、誰かにとっては意味のあることだったりするからだ。自分の評価ほど曖昧なものはない。私は私の評価を信用しなくなったおかげで、色んなことができるようになった。コーヒーにこだわったり、観葉植物を育ててみたりなど、何にもならないどうでもいいことだ。

風景画もそのうちの一つだった。何かの意味があると思って描き始めたわけではないし、何かにしたいと思っていたわけでもない。日常風景の美しさに気づいてもらえるきっかけになればという意味も後付けで、気づいてくれる人が現れたから私もそういう意味があるんだなあとあとから知ったのだ。意味というのは始めた人が付けるのではなく、あとから見つけた人が付けるものなのかもしれない。最初に自分で意味をつけてしまうと、誰かが違う意味を付けてくれた時に、そうじゃない!と突っぱねてしまっていたりする。私もそうだったし。それはすごくもったいない。100人いれば100人それぞれの意味があり、大なり小なりがあり、善し悪しがある。作者としてはこの世に作品を出す以上、受け入れなければならないと思っている。


私は私の評価を信用すると、こんな長い文章なんて誰も読まないだろうと思う。最近では動画が主流のため、文章が読めない人も増えていると聞く。こんなものを書いたって何の意味もない!と突っぱねていたら、ハフポスト日本版や静岡銀行のコラムを書くこともなかったのだから不思議だ。でも、いつ来るか分からない意味のために続けることはできない。だから他に何かが必要なのだ。何かを始めるために意味を探すのも疲れるし、その意味になるようにやり続けるのも大変。売れるためにという意味があったとして、それはいつやって来るのかとか、売れていないこの作品に意味はないのかとか、自分で勝手に付けた意味に縛られ続けてしまう。他に必要な何かは、自分で意味を付ける前の、もっと衝動的な感覚のようなものだと思っている。文章を書いていると心も身体も心地がいい。まずはその感覚に従って書いてみる。意味はあとから付いてくると。

13年も続けている音楽なんて、始めた当初の意味は消えてしまったのに今でもやっている。私の中にある、衝動的な感覚はまだ消えていないからだ。すでに1400文字に到達するのに、まだこの文章を書き続けているのも、まだまだ書きたいという気持ちが収まらないからだ。誰かに書いてほしいと言われた時だけ書いていては、その誰かの数しか書けないし、誰も現れなかった時はやめてしまうだろう。意味は時として、続けていく上でのブレーキになってしまうことがよくある。だから私に意味は必要ない。今日も意味なく、ただ衝動に身を任せて書き連ねていく。

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