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躁の波を乗りこなす

心臓がいつもより早くドクドクと動いているのを感じる。身体は少し強張って、緊張しているようだ。視界はパーっと開けていて、まるで覚醒しているような感覚の中、何に対してなのか分からない焦りがある。そして湧き上がってくる何でもできそうという自信。私はおそらく躁鬱人の躁状態になっている。昨晩は衝動を抑えきれず0時近くまで制作してしまい、さらに覚醒して眠れなくなってしまった。頭の中でのインスピレーションも止まらない。次々にアイディアが浮かんできて、気がついたらこれらをどうやったら実現できるのか具体的な計画を考え始めてしまっている。いかんいかん!と掻き消して抑えようとするものの、ソワソワして居ても立っても居られない。動きたいのに動けないのも辛いけど、動きたいのに動かないのもわりと大変。1年前の自分なら、やりたいことが降ってきたー!と喜び、確実に行動に移していただろう。躁状態は、脳内のドーパミンが異常に放出されてしまっている状態らしい。何にもしていないのに勝手にドーパミンが出てくれるなんて便利な機能に思われるかもしれないけど、いつまで続くか分からないし、反動で次は鬱がやってくるというなんとも不便な機能なのだ。だから動きたい衝動を抑えながら、そのうちやってくる落ち込みに怯えながら過ごさなければならない。これが躁鬱人の多くが感じる焦燥感の正体なのかもしれない。

実際、躁を抑えるのは難しいし、我慢する人生なんてつまらない。だから私はこういう時こそ、自己完結できるものにエネルギーを注ぐ。一生懸命掃除したり、料理したり、作品を作ったりする。エネルギーが出る量を調整するのではなく、出る方向を調整するイメージだ。お金を使わず、周りを巻き込まず、今日終われることであれば明日鬱になっても大丈夫だから。どうせ継続しないのであれば、継続しない前提で始めればいい。そうすると、自然と身の回りにある日常でできることに絞られていく。

世間一般的には躁を抑えましょうとか、鬱を持ち上げましょうと言って薬を出される。躁も鬱も良くないものだから、波がない平らな人間になることを目指す。でもそれは躁鬱人がより生きづらくなるだけで、何も解決していないように思う。波は待ち構えるのではなく、乗りこなしてしまえば楽しい。時には楽しめないくらい大変なんだけどね。一時的にもドーパミンが出まくって何かにエネルギーを注げるのは、誰にでもできることではなく、授かりものではないかと最近思うようになってきた。それがやりたくてもできない人もいるわけで、私たちは勝手になってしまうから周りと違っていておかしいと感じてしまうけれど、せっかくの授かりものを何にも活かさないのはやっぱりもったいない。

私もそうだったけど、躁鬱人は何かに夢中になれることが当たり前だと思ってしまっている。周りが見えなくなって、疲れを感じにくくなり、なぜか自信が湧いてきて、どこまでも突っ走ってしまえるのがデフォルト機能として備わっているから。それを医者に突然「病気だから薬飲みましょうね」と言われてしまうと、自分のデフォルトが否定されたように感じて、急に生き方が分からなくなる。違う違う〜そうじゃ〜そうじゃな〜い。躁はせっかく与えてもらった当たり前にできる能力なのだから、抑えるのではなく、使いこなしていくべきだと私は思う。それは飛行機の操縦ぐらい難しいことかもしれない。でもペンギンが空を飛ぶ練習をしても仕方がないように、平らな人間のフリをする練習をしても生きやすくはならない。だからまずはお金を使わず、周りを巻き込まず、今日終われることに一生懸命になってみる。それは大したことではないはずなのに、躁状態でやっていると周りからしたらすごいことのように見えたり、役に立てる時があったりする。何か壮大な計画を立てなくても、当たり前のことを当たり前にやっていればいいのだ。お金を使わず、周りを巻き込まず、今日終われることであれば鬱が来てもやめられる。このやめられる安心感の確保は何よりも大事だ。最高のパフォーマンスというのは、絶対的に守られる安心感の元でこそ、最大限に発揮されるものだから。私たちはシーズンごとに販売される期間限定商品のように、短い間だけ盛り上げて、終わったらスッと撤退するのがきっと役割なのだろう。いつでも安定した同じクオリティーを提供し続けるのは、それが得意な人たちに任せればいい。当たり前にできてしまうことこそがその人本来の能力であり、世の中へ役立てるべきことだと私は思う。

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