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不安定な生き方マニュアルを作る

長らく書いていなかったけど、私は躁鬱人だ。双極性障害というなんだか深刻そうな名前は嫌だから、坂口恭平さんを見習って躁鬱人と言っている。自分が躁鬱人だと知って調べた時に、医学的な文献ばかりで当事者たちの声があまりにも少なくて困った。治らないのなら上手く付き合っていくしかないのに、実際にそれができている人がどんな生活をしているのかが分からない。薬を飲んでいて大変ですみたいな話が多い。そもそもパイが少ないからなのだろう。だからマガジン「生活すること」へ、自分の生活を書き記していくことにした。先日薬を減らすことができた節目として、これまで何をしたのかをまとめておこうと思う。


躁鬱人の生態はもう知っている前提で割愛。私は効果があるとされる半分の量、200mgの薬を飲んでいた。なぜ半分なのかと言うと、感情が平らになって無になるのが嫌だったからだ。苦しみはなくなるかもしれないけれど、人間の良さは感情の波があることだから、それを完全に失くしてしまうのは違うと思った。つまり薬を飲めば広くて平坦な道を安心して歩けるのが、狭くて細い平均台の上をグラグラとふらつきながら歩く状態になる。だからいつ躁か鬱へ引っ張られるか分からない恐怖と隣り合わせの生活に耐えられず、薬が増えていってしまうのだろう。そこで私は平坦な道にするのではなく、落ちても大丈夫なように平均台の下を整備することから始めた。

まずは自然豊かな場所へ引っ越した。自然には本当にたくさんの効果があって、落ちた時に自然の近くにいるだけで引っ張り上げてくれる感覚がある。家は引きこもっていても嫌にならないサイズ感で、陽当たりも重視した。自由が効かない窮屈さは躁鬱人の天敵だ。これは元々やっているけど、血糖値がぶち上がる食べ物や、ハイになるお酒を避けている。上がったら必ず落ちるからだ。感情が不規則なのに生活も不規則だと不規則のコラボレーションになってしまうから、朝6時に起きて夜22時には寝ている。逆に定期的でなければならない勤め人の仕事は、一定のクオリティーを保ち続けらなければならないから、不安定な人間がやると迷惑がかかってしまうためやらないようにしている。躁鬱人の良さはクオリティーが一定でない代わりに、たまにすごいクオリティーでできることだと思っている。

平均台の下の整備が終わったら、今度は平均台の上でジャンプしたり踊ったりし過ぎない自衛対策をする。あんまりやると落ちてしまうからだ。つまり調子に乗りすぎないようにする。躁鬱人が調子に乗っている時は、エネルギーがあり余って疲れを感じない状態にある。足を滑らせて大怪我をするかもしれないなんて全く考えていない。だけど元気な時に元気じゃないようにしてくださいと言われても難しいように、そのエネルギー放出を自らの意思で抑えることはできない。だから薬を飲むのだけど、私はエネルギー放出先を分散させることで、一度の大量放出を防いでいる。例えば私は絵を描くのが好きで、絵だけを描き続けたとする。すると、毎日四六時中描けてしまうからあっという間に100枚へ到達して、夏には個展をやっているだろう。やりたいなあ〜と思いながら書いているのだけど(笑)、これではエネルギーが出過ぎてしまう。だから文章を書いたり、曲を作ったり、料理をしたり、散歩へ行ったり、観葉植物を育てたり、色んなことをして一つのことに集中し過ぎないようにしている。これが今のところいい感じに回っている。

時間制限も重要な役割になっている。どんなに集中していることでも18時には切り上げていて、それをしないと日付を越えて朝までできてしまうからだ。エネルギーが切れるのは鬱になる時で、そうなる前にやめなければならないのだけど、本当に不思議で全く疲れない。やりがいと充実感しかないからとても気持ちがいいのだけど、リミッターが外れているだけだから身体にはとても悪い。鬱はそのリミッターが外れていた反動だ。だから18時には強制終了させている。

引っ越してから5ヶ月目になるけど、60本以上の記事と、24枚の絵と、2曲のフルバンドアレンジ音源を作りながら、毎日自炊をして、依頼の仕事も受けているから、私は常に若干の軽躁状態なのだと思う。だからたまに動悸が始まって、落ちる時がある。心臓の動きが早くなっている時は、エネルギーを出し過ぎている合図なのだと分かってきた。そんな時は全てのペースを落として海岸でぼーっとしたり、温泉に浸かってぼーっとしたりしている。そうしていれば数日で回復できるのは、上がりすぎないようにしているからなのだろう。上がる高さが高いほど、落ちた時の衝撃は大きい。

自分が躁鬱人だと分かった時に最初に感じるのは、今まで躁になって出来ていたことが出来なくなってしまう不安だと思う。躁は本来の自分ではないから薬で押さえなければならないと思い込んでしまうと、薬をやめられなくなるし、どう生きていけばいいのかが分からなくなる。躁鬱人として生きていくならば薬でなかったことにするのではなく、躁にも鬱にも居場所を作ってあげる必要があると私は思っている。どちらも大切で、どちらも必要な自分なのだからこそ、どちらへ転んでも居心地が良いような環境作りは超!真剣にやるし、何よりもまずは自分が受け入れてあげなければならない。

社会では常に安定を求められる。生き方のマニュアルも安定することばかりで、不安定である躁鬱人はとても生きにくい。だけど全員が安定していて安定したものばかりだったら、この世界はとてもつまらなくなってしまうと思う。安定した生き方と、不安定な生き方にはそれぞれの役割があって、安定しているからこそできることと、不安定だからこそできることがある。躁鬱人は不安定な生き方をしている方が居心地よくいられて、実はその方が役に立てることが多い。なんせ居心地がいいおかげでパフォーマンスも上がるからだ。不安定にしておくことである意味安定する、矛盾したバランス。マニュアルは自分で書かなければならないから大変だけど、薬が必要ない不安定な生き方マニュアルは完成させられると私は思っている。私は躁鬱人で不安定です、だからありのまま不安定に生きます。と言うところから入っていくと、マニュアルの書き方が変わっていくかもしれない。

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