小説:五月雨をあつめて 【2000字ジャスト】
私は船を作る。
出来るだけ早く、出来るだけ丈夫な船を。
グラウンドを走り回る犬を眺めながら、私は必死に眠気をこらえていた。
教室は春にかならず眠くなるような設計でもされているのだろうか。
少し暖かすぎる室温、のんびりとした拡散光、単調な先生の声、ほのかな制汗剤の香り、衣擦れの音、身動きの取れない硬い椅子、ひそひそ声、あたまがぼーっとしてくる。
私は眠るわけにはいかない。
真面目な私は眠るわけにはいかない。
私は恵まれた子供だった。
微笑んでさえいれば、なんでも与えられることを知っていた。
「良い子だね」「優しい子だね」「いつも穏やかだね」
それらはまるで柔らかな脅迫だった。
それ以外は許さない、と彼らの目は言っていた。
でも世の中には食べる物に困る人や、暴力に怯える人もいる。
その点私は微笑んでさえいればなにも起きないのだから、私は恵まれた子供だった。
「落としたよ」と彼が言った。
振り返ると、彼の手には私の薬があった。
私はそれを素早く受け取った。
うまく表情を作れずにいる私に、彼は言った。
「大丈夫だよ。それがなんの薬かは知ってるし、誰かに言ったりしない」
いつもの微笑みを取り戻せないまま、私はうなずいた。
「どうして知ってるの?」と私は聞いた。
「身近に飲んでる人がいたから」
学校では、どんな人とも知人以上の関係にはならないようにしていた。
いつもの笑顔が愛想笑いだと知られないようにするには、それが最善だった。
しかしある日、彼と友人になれたらどんな感じだろう、と想像してしまっている自分に気がついた。
私は、自分でなにかを決めていい人間なんだっけ?
私は、与えられたものを受け取るだけの子供だった。
自分で判断する必要も権利も存在しなかった。
「あなたは女の子なんだから」
「素直に喜んでいればいいの」
「それが愛嬌よ」
私ははじめて自分が望んでいることを認識した。
そして、私ははじめて私に従い、彼に伝えた。
「私と、友達になってください」
「友達でいいの?」
「え、それ以上でもいいの?」
「ん?あ、僕が友達でもいいの?っていう意味だったんだけど」
私は両手で顔を伏せた。恥ずかしかった。
「でも、君がいいなら、僕もそれがいい」と彼は言った。
私はその春、生まれてはじめて桜を綺麗だと思った。
川沿いの道をふたりで歩いているときに、彼が言った。
「この川も海につながってるの、不思議だな」
「水は全部つながってるんだよね。雨になったり、川になったり」
「五月雨をあつめてハヤシライ…じゃない、ちがう」
私はつい大きな声を出して笑ってしまった。
「間違って覚えると、そっちが先に出てくる現象なんなんだろう」
「ハヤシライス…雨を集めたハヤシライス…」
「っていうか、そんなふうに笑えるんだね。びっくりした」
私はまた両手で顔を伏せた。
一度だけ、彼の家に行ったことがある。
とはいえやましいことは何一つしていない。
ただ単に、一緒にリビングで映画を観ただけだ。
彼は母親と二人暮らしだった。
映画が終わって彼がトイレに行ったとき、彼の母がリビングにやってきた。
「ごめん、ちょっとコーヒーだけ淹れさせてね。邪魔してごめん」
「いえ、大丈夫です」
「あれ、あの子は?」
「トイレです」
コーヒーを淹れながら、彼の母親は言った。
「うちはいろいろあって父親がいないから、あの子に無理させちゃってると思うんだ」
「そうなんですね」
「泥舟に乗ったつもりで安心しろって言ってあげたいんだけどね」
「大船じゃないですか?」
「あ、そっか。大船に乗ったつもりで、か」
彼の母親は、コーヒーのしずくが落ちるのをじっと見ていた。
彼と連絡がとれなくなったのは、それから数週間後のことだった。
私はなにか間違ったことをしてしまったのだろうかと、自分の言動を振り返った。
彼の様子も、とくに変わったところはなかった。
やっと自分の顔で笑えるようになったのに。
やっと薬を飲まなくなったのに。
また愛想笑いをする私に戻るのだろうか。
一度だけ届いたメッセージには、「もう会えない。ごめん」とだけ書かれていた。
ある日、彼の母親をニュースで見た。
そのニュースは、会社の金を横領するとこうなるぞ、という見せしめのように見えた。
画面で見る彼の母親は、コーヒーが落ちるのをじっと見ているような表情だった。
雨が降っていた。
私はふたりで歩いた川沿いをひとりで歩いた。
桜はべったりと暗い地面に張り付いていた。
彼は、後ろめたさから連絡を絶ったんじゃない。
私を巻き添えにしないように、私の人生から消えようとしたんだ。
そうはさせない。
いつか彼を迎えに行く。
私には彼が必要だ。
降り続く雨は川の勢いを必死で強めていた。
そうだ。もっと降れ。
私の心にももっと降れ。
私はその五月雨を集めて、もっともっと集めて、一秒でも早くあなたに会いに行く。
そのために私は、出来得る限りの丈夫な船を作らなければならない。
私は生まれてはじめて、強い意志をもった目で川の行く先を睨んだ。
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