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小説:リバーズ 【2000字ジャスト】

秒針ってこんなに遅かったっけか、と僕は思う。
心なしか、重力まで重くなっている気がする。
無音の会議室に紙をめくる音だけが吸い込まれていく。
せめて責めてほしい。
ため息だけはやめてほしい。
そんなことを考えていると、やはり統括マネージャーはため息をついた。
「セルイン、未達。セルアウト、これも未達。うん」
僕はなにも言わない。
「やれるだけのことはやったんだよね」
「そう…ですね…。いや、やれてないかもしれません」
「ん?どっち?」
「やれてません」
「そうだね」
「はい」
「ディストリと連携とれてる?大丈夫?嫌われてない?」
そう言って統括は笑った。
感情を隠すのに慣れきった、朗らかで冷酷な笑顔だった。
「他社の戦略が読めていませんでした」
「俺はね、動向見てたら、これブッこんでくるだろうなぁと思ってたんだ」
「…そうなんですね」
「だって前年比見てみなよ、これ」
統括マネージャーは紙を何枚かめくったあと、僕にグラフを見せた。
僕はまたなにも言えなかった。
「まぁ、がんばって」
そう言ったあとで統括マネージャーは立ち上がり、会議室のドアを閉めた。
会議室の重力は重いままだった。
まるで…と思いかけて僕は首を振る。

窓の外は、季節外れの暖かな日差しに満ちていた。
窓を開ければきっと気持ちのいい風が入ってくるだろう。
けれど、窓を開けてもいいものなのかわからなかったので、しなかった。
「また来るね」と僕は妻に言った。
返事はない。
僕はドアの前ですこし待ってみる。
それに意味があるかはわからない。
少なくとも、意味があるかどうかなんて考えることに意味はない。
そして今日も僕はドアを開ける。
うなだれた僕の心みたいに重いドアだった。

小さな頃、庭の土で川を作る遊びをしたことがある。
芝生の層を剥がして土を掘り、掘った土で山を作り、爪の間に土を詰めながら理想のカーブを捏ね上げた。
僕は何度も裏口の水場から黄色いプラスチックのバケツに水を汲んできて、その川を完成させようとした。
けれどどうしても、水は思った通りには流れずに、土に吸い込まれていった。
気がつくと、あたりは薄暗くなりはじめていた。
諦めた僕は裏口の水場で手を洗い、夕飯を作るためのボイラーの排気の匂いを嗅ぎながら家に入った。
翌日、庭を見た祖父にこっぴどく叱られることなんてまったく知らずに。

数年前、ある理由で世界中が混乱していた時から、妻はずっと眠り続けている。
僕はときどき、確実に誰も来ないだろうなというときを見計らって、妻の胸に耳を当ててみることがある。
そこには、確かになにかが流れている低い音がした。
彼女の血液の音かもしれないし、ひょっとしたらそれは僕の血液の音なのかもしれない。
どちらでもいい。
そこにあるなにかを聞く僕がいるから音は存在する。
そして彼女も存在する。
それをときどき確かめたいだけだ。

夕飯の時に、ふと息子に言ってみた。
「ねぇ、最近母さんに会いに行った?」
「うーん」
「たまに行ってみない?」
「行ってもわかんないかなぁって」
「そうかなぁ」
「なんかさ」
「うん」
「やっぱり気づいてもらえないって確認しに行くの、気が進まなくてさ」
「確かにね。そういうのもあるかもね」
「いや、でも、今度行ってみる」
「そう?」
「だって父さんが言ったってことは、あれじゃん」
「あれ?」
「ずーっと考えてたってことじゃん」
「てへ」
「てへって」

ある日、病室に来た息子の荷物に僕はぎょっとした。
「なに持ってきたの、お前」
「え?いや、あれ?だめ?」
「病室でアンプは、まずいんじゃないかなぁ」
「音ちっちゃくすればいけるかなって」
「いや、音もだけど、なんだろう、倫理?道徳?」
「そんな気はしてた」
「してたのかよ」
息子は病室の入口に一通りの荷物を置いた後で、妻に声をかけた。
「母さん、俺だよ」
なにも答えない妻を見ても、息子はとくにがっかりした様子はなかった。
「アンプに繋がなきゃ、ありだよね」
そう言って息子は、ソフトケースからギターを取り出し始めた。
「いや…いや、まあいいか」
「それでは次の曲、聴いてください」
「前の曲どれだよ、ねえよ」
「泣かないでね?」
「歌うの?ちっちゃい声でね?」
息子は、とくにうまいわけでもない歌を歌った。
人生は川だとか、すべてを洗い流してだとか、そんなありふれた歌詞だった。
一通り歌い終わると、恥ずかしくなったのか息子は帰り支度をはじめた。
「先帰ってるね」
「おん。ありがとうな」
「母さんまた来るね」

ふたりきりになった病室で、僕は妻の胸に耳を当てた。
誰も来ないという確信がある時間ではなかったけれど、そんなことはどうでもいい。
彼女の入院着のみぞおちのあたりに染みができていった。
その時、なにかが僕の頭を撫でた。
再び川は流れ始めた。

翌月、統括マネージャーは僕の顔を見て言った。
「お、いい目してんじゃん」
「ありがとうございます」
「昔に戻ったみたいじゃん。その目が気に入ってたんだよ」
「勝ち方を忘れてました」

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