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小説:ケサランパサラン 【2000字ジャスト】

僕はそれをケサランパサランだと言い張った。
海苔の佃煮の瓶に入れたそれを、僕は大切に机の上に飾っていた。
ときどき手にとっては眺め、そのたびにひそやかな興奮に浸っていた。
まるで共通の秘密を分かち合うみたいに。

できるだけそれを誰にも見せないようにしていた。
隠したかったのではない。
否定されるのが嫌だったのだ。
「雑草の綿毛でしょ」「動物の毛じゃないの」
皆はそろって僕を絶望させようとした。
可能性なんてくそくらえと思った。
あるのは僕の現実だけでいい。

「そう。あなたの現実だけがあればいい。私はあなたの信じる現実によって存在する。あればある。なければない。それはあるいは永遠であることの証明でもある。私はそうやって存在を続けてきた」

高校生になってからも、それは僕の机の片隅にあった。
手にとって没入するほど眺めることはなくなったけれど、視界の片隅にそれが見えると僕は優しい気持ちになることができた。
そうしてときどき気分を切り替え、僕は受験勉強の続きに戻った。
彼女と同じ大学に合格しないことには、僕の人生は始まりもしないのだ。

プールの監視員のアルバイトに応募したのは、べつにやましい目的があったわけではない。
あの高い椅子に座ってみたかったからだ。
単純に座れればよかったわけではない。
それなら誰もいないときに人目を盗んで一瞬座るくらいのことでいい。
僕は、プールで泳ぐ人たちをあの視点から眺めてみたかった。
そこで彼女と出会った。

「私はあるいは存在が始まる前から存在していた。存在とはなにかと考える存在が存在し始めるずっと前から。しかし私が現れるためには私を信じるものが必要だった。実際に現れることができるまで私は眠り続けた。暗く静かなあまりに広すぎる部屋で」

「暑くないの?」と彼女は言った。
僕はふいに足元から聞こえた声の意味が、すぐには理解できなかった。
「なんですか?」
「そこって、暑くないの?」
「暑くないってことは、ない」
「水に入らないプールなんて、砂漠とかわらないんじゃない?」
「目の前に入れない水があるだけ、砂漠よりつらいかもしれない」
「ねぇあたし、友達と午前中で解散するんだ」
「それは残念だね」
「かき氷食べたくない?」
「すっごい食べたい」

彼女は僕と同じ歳で、とてもよく日に焼けていた。
僕は午後の監視員に引き継ぎをすませてから、彼女と待ち合わせた場所に向かった。
「大人になると時間が過ぎるのが早くなるんだって」
彼女はかき氷を食べながらそう言った。
「たしかによく聞くね」
「こっちは早く大人になりたくて毎日必死で時間つぶしてんのに」
僕はなにかを言おうとしたけれど、それはうまく言葉にならなかった。

どんなきっかけだったかは思い出せないけれど、彼女にケサランパサランの話をした。
僕はその話をしたあとで、しまった、と思った。
成長してから口にしたその言葉は、あまりに馬鹿げているように聞こえた。
しかし彼女は、目を輝かせた。
「ほんとにあるんだ。ずっと見てみたいと思ってた」
「信じてるの?」
「だって、あるんでしょ?信じるも何も」

それから僕は受験に失敗して、誰にも会わなくなった。
ベッドから起き上がることにも、それほど意味を見出せなくなった。
毎日のようにインターネットを巡回し、わるいやつだと思うものを通報した。
ベッドの上から僕は僕の正義を執行していた。
ある日、数か月ぶりに彼女からメッセージが来ているのを見つけた。
僕にはそれを見る資格がなかったので、そのメッセージを開く事はなかった。
台無しな自分はなにかを台無しにしないといけないような気分になったので、僕はわざわざ立ち上がり、机の上の物をすべて床に薙ぎ払った。
僕にぴったりな光景になった机を見て、僕は少し満足した。
ベッドに戻ろうとしたとき、なにかに躓いた。
それは海苔の佃煮の瓶だった。
蓋は開いていて、中身は空っぽだった。
どれだけ探しても、瓶の中身は見つからなかった。
ところで、瓶の中身はなんだっけ?

「私はあらゆる場所に存在する。それは時間でも空間でもない場所だ。どこにでもあるし、どこにもない。あなたが私を認識した瞬間から私は存在する。そこから私の存在が始まる。私はあらゆる場所に存在する。遍在する私は認識する者がある限りいつでも現れる」

会社からアパートに帰る途中、信号待ちでふと横を見ると、プールが視界に入った。
そういえばずっと泳いでないな、と僕は思った。
しかし、もっと大事なことがあったような気がした。
後ろの車がクラクションを鳴らしたので前を見ると、信号はとっくに変わっていた。

夏が近づいていたある日、彼女から電話が来た。
もう何年も連絡をとっていなかったので、その突然さに僕は驚いた。
彼女の名前を見た瞬間、これまで過ぎて行ったたくさんの時間を思い出した。
僕は深呼吸したあとで電話に出た。
「もしもし」
「ねぇ聞いて。ケサランパサラン見つけた。見たい?」
「見たい」と、僕は答えた。

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