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小説:衝動 【2000字ジャスト】

あいつは時々女ものの香水の匂いがする。
そのたびに、私は朝からムカつくことになる。
「なんで肩パンチするの?おはよう」
「わたしの母国では朝の挨拶はこう」
「いや、保育園のときから一緒でしょ」
そう言うと、あいつは肩をおさえながら席に着いた。
人の気も知らない顔で。

天気のいい休日に私は自転車に乗る。
なにかを考えたいときはいつも。
景色が移り変わる速度が、私が考え事をする速度に似ている。
考えたってしょうがない、という考えに至るまで私は走る。
私の脚が太くなってきたのはあいつのせいだ。

私はその香水の匂いが誰のものかを知っている。
だからこそ腹が立つ。

「なに飲みたい?」とあいつは聞いた。
いつだったか、財布を忘れた日があって、ジュースを奢ってもらった。
次は私がおごるから、と言って以来、交互にジュースをおごる習慣ができた。
「イチゴオレかな」
「売り切れてたら?」
「なかったらミルクティー」
「はーい」と言って、あいつは教室を出た。

私は自転車に乗るとき、できるだけ誰もいない田舎道を走る。
そして少し大きな声で「アナーキー・イン・ザ・UK」を歌う。
とはいえ、私はべつに不良でもパンクスでもない。
誰だってなんとなく歌う歌はあるはずだ。
そのきっかけなんて大した問題じゃない。

いや、私はきっと大した問題じゃないと思いたいだけなのだろう。
どうせなら腹が立てばいいのに、と私は思った。

私とあいつはいつも一緒だった。
いいやつだけれど、べつに好きなわけではないと思う。
私たちはカーテンに隠れてキスをしたことがある。
といってもそれは保育園の頃の話だけれど。
無邪気な好奇心というのは恐い。
その無邪気さは時に、好きでもない相手とキスをさせてしまうのだから。
ふたりの間でその話をしないことは暗黙の了解になっている。
あいつは忘れているだけかもしれないけれど。

そして私は自転車に乗る。
頭がシンプルになることを期待しながら。
ある日、叔父のガレージで埃をかぶっていたその自転車を私は見つけた。
クロモリ、ホリゾンタルの自転車が世界でいちばん美しいと叔父は言っていた。
私はその自転車を一目で気に入った。
細いクロームモリブデンのパイプをつなぎ合わせた、シンプルで完璧な道具。
私はこの自転車みたいな大人になりたいと思った。

その香水は、私たちが中学一年の頃に担任だった先生が使っていたものだ。
若くて活発な、というよりやんちゃな女の先生だった。
一度、音楽室でセックスピストルズの動画を大音量で聴かされたことがある。
もちろんすぐに教頭先生が飛び込んできて、こっぴどく叱られていた。
先生は反省するふりをしながら、背中で中指を立てた。
私たちは笑いをこらえるのに必死だった。
あいつがその先生に惹かれていたことは、顔を見ればわかった。

「言っとくけど」と先生は言った。
授業でセックスピストルズを流した翌日だった。
「手当たり次第に破壊しろとか、ベースで客のアタマをカチ割れっていう意味じゃないからね」
私たちは笑った。
「ただ、抑えきれない衝動をなにかの形で表現すると、時にそれはとんでもなく美しいものになる可能性があるの」
先生の声のトーンが変わったので、私たちは思わず耳をすました。
「君たちは今、人生でいちばんの衝動と可能性のカタマリである時期だと思う」
先生はにやりと笑った。
「君たちの衝動がどんな姿を現すか、私は楽しみでしかたがない」
私は胸がざわつくのを感じた。
「私が世界でいちばん好きなものは、君たちの未来だ」
先生は笑っていたけれど、私にはなぜか、先生の目があの動画で無表情でベースを弾いていた人みたいに寂しそうに見えた。

ある日、先生が夢に出てきた。
あの日の授業の姿のままの先生は、画面を見ながら楽しそうに踊っていた。
その画面の中で演奏しているのは、私とあいつだった。
目が覚めると、私は泣いていた。

学校に行くと、あいつはまたあの香水の匂いがした。
「お願いがあるんだけど」と、私は言ってしまった。
「なに、どうしたの」
「その香水」
「あ、ごめん。匂いした?」
「うん」
「部屋でたまに使うくらいだったんだけど」
「先生のこと思い出すから」
「……先生のだって知ってたんだ」
「うん」

先生が使っていた香水をわざわざ探して手に入れたあいつが気に食わない。
気付かれないと思っていたあいつが気に食わない。
先生への想いをいつまで引きずっているんだ。
先生はもうこの世にはいないのに。
私のほうがあの先生のことを好きだったのに。

私は自転車で走った。
そして、今まで出したことのないいちばん大きな声で「アナーキー・イン・ザ・UK」を歌った。
途中で誰かとすれ違ったかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
先生に会いたい。
あいつのことも好きだ。
私はどうしたらいいんだ。
どれだけ走ったってシンプルになんかなれない。
どこまで行ってもどこにも行けない。
それでも私は自転車に乗るだろう。
鼻の奥に残っている香水の匂いが消えるまで。

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