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小説:フェスティーヴォ 【2000字ジャスト】

冷凍庫を開けると、それはあった。
僕はそれを手に取り、冷凍庫を閉めた。
こんなものがあるなんて、祖父もまだまだ元気だな、と僕は思った。

こんなタイミングで夏休みを与えられたって困る。
なに休みだよこれ。
とは言え、然るべきタイミングで夏休みを与えられてもそれはそれで困る。
あとでさんざん恩着せがましく言われるのだ。
ちゃんと夏に夏休みのシフト組んであげたでしょ?と。
そして正月に言われるのだ。
夏休みしっかり休ませてあげたんだから、年末年始出られるよね?と。
かと言って夏も冬も休みをもらえたからってとくにすることもないのだけれど、気持ちの問題だ。
気持ちの問題は大事だ。

しょうがないので僕は実家に顔を出しに来た。
出しに来たのだけれど、誰もいなかった。
連絡をしなかった僕が悪い。
居間のカレンダーを見ると、祖母はデイサービスに行っていた。
祖父はおそらく、畑か田んぼだろう。
まだ暑いのに、と僕は思った。
運転の疲れもあったので、僕は一休みするために冷凍庫を開けた。

袋からそれを取り出すと同時に手が滑った。
あずき色をしたそれは、一度台所の床でバウンドしたあとに窓のほうへ滑って行った。
え、アイスってバウンドすんの?
硬いことに揺るぎない信頼を持つそれとはいえ、跳ねるのは初めて見た。
冷凍庫の温度設定を見ると、最強になっていた。

三十秒ルール、と思いながら、僕はそれを拾って食べた。
かじりつくことはできなかったので、僕は歯で削りながら溶かしたそれを摂取した。
そういえば祖父は異常に歯が丈夫だった。
一度、アルミ缶を噛みちぎったのを見たことがある。
僕は小さい頃、それを見てめちゃくちゃ笑った。

アイスを食べながらカーペットの上に横たわり、僕は目を閉じた。
こんなに静かでゆっくりとした時間は久しぶりだな、と思った。
表示しない、に設定するキーワードが増えていく毎日。
必死で見ないようにするニュース。
どうして僕は、わざわざ見たくないものに近づいていたんだろう。
秒針の音に気付いたのなんていつぶりだろう。
小さい頃と変わらないその音は、僕を微睡に誘った。

「そういえば頼みたいことがあった」と祖父が言った。
祖父は仏壇から封筒を持ってきた。
僕はお金でもくれるのかなと思ったけれど、その封筒からは小さな白いかけらが出てきた。
「なにこれ?」と僕は言った。
「ひいばあさんの骨」と祖父は言った。
「なんでそんなのあんの」
「まぁ、いろいろあったんだ」
「頼みたいことってなに」
「これ、墓に入れてきてくれないか」
僕はなにも言わずに頷いた。
事情、と僕は思った。

裏山にある墓に行こうとしている僕に、祖父が小さな器に入れたなにかを持ってきた。
「忘れてた。これ飲んで行ってくれ」
僕は匂いを嗅いで言った。
「おれ未成年なんだけど」
「これは別なんだ。墓の開け方はわかるよな」
それを飲んだ後、玄関を出ようとしている僕に祖父は言った。
「もしあれだったら、お前も骨噛みしていいぞ」

墓に上る坂はいつも通り急だった。
ひぐらしが鳴いていた。僕は何百もの震える蝉の腹を思った。父の腹が震え、母の腹が震え、きっといつか僕の息子の腹も震え、そのために僕が腹を震わせ、そうだ、震わせなければならない。騒がなければならない。醜く叫ばなければならない。耳をすますと大きな球の表面でたくさんの粒が震える音が聞こえた。ひとつだけを聞くと醜く哀れな叫びだったけれど、その叫びの音の集合が家を越え町内を越え市を越え県を越え国を越え、いつしかそれは億を越えたあたりで美しいひとつの振動になった。この世界は振動でできていた。振動はたくさんの音を奏で、僕らはそれに合わせて踊った。必死で踊った。踊る僕の額から玉の汗が飛び散り、その汗の表面で小さな僕たちが踊っていた。桜が咲いて散って咲いて散った。僕の死体に咲いた桜を眺めながら僕は彼女の手を握った。綺麗だねという彼女に君のほうがもっと桜だよと言うと彼女は咲いた。とても咲いた。だから僕は腹を震わせた。大好きだよと伝えられる音が出せるようになるまで僕は震えた。正しかったのかどうかは今となってはわからない。でも震えないわけにはいかなかった。踊らないわけにはいかなかった。できれば彼女と踊り続けたかった。彼女と同じ音を出したかった。彼女とより合わせられたひとつの弦になりたかった。僕と彼女の螺旋の弦から生まれた震えで踊る子供を見たかった。花びらを額に飾って眺めたくなんてなかった。花はまた咲くために散る。僕はもう少しだけ震えてみる。たくさんの振動のひとつになるために。

それが数秒だったのか、数十分だったのかはわからなかった。
僕はなにかを考えていたようだった。
僕は封筒からそれを取り出した。
とても美しかった。
なんの迷いもないその白を僕は少しかじった。

「じいちゃん、あれ普通の酒じゃねぇだろ」と、夕飯を食べながら僕は言った。
「ないしょ」と祖父は言った。
曾祖母の笑い声が聞こえた。

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