小説:ナイトホークス 【2000字ジャスト】
投げた空き缶は花壇のレンガに当たり、必要以上に大きな音が響いた。
昼間ならこんな大きな音は出ないような気がする。
昼と夜とでは空気の質が違うのだろうか。
あるいはそれは暗闇の中にいることで無意識な怯えがあり、耳が鋭くなっているせいなのかもしれない。
どうでもいい。
空き缶は帰るときにゴミ箱に入れよう。
どうせゴミ箱の前を通る。
また考え事に戻るために、僕は両手の親指でこめかみを押した。
それは誰かの癖がうつってしまったものだった。
小さい頃のことだからよく覚えていない。
眠るのを諦めた夜は、いつもこの公園に来た。
なにを悩めばいいのかすらわからなくなる夜というのがある。
そんなときはいつもバイクで走った。
誰もいない真っ暗な道を、一定の音で進む。
同じ音、同じ速度、同じ動作、同じ景色。
そうすることでいつのまにか、僕は僕を俯瞰している。
ちょうど考えたいことに指先が触れる距離にあるのがこの公園だった。
そこで僕はいつも缶コーヒーを飲みながら、アクセルの形に固まった指をほぐした。
いつも同じ夢を見る。
小さな僕は誰かの名前を呼ぶ。
誰かの声は僕を勇気づけようとしている。
僕はそんなことをしないでほしかった。
それを受け入れるわけにはいかなかったから。
目が覚めるたびに、僕の心臓は破れそうに脈打っている。
なんだっけ、と思う。
そしてそれが、努力して忘れようとしたなにかだったと気付く。
幸いなことに忘れてしまった。
いつものように夜の道路を走っていると、前方の道端でなにかがふたつ光った。
僕はアクセルを緩め、それが道路を渡るのを待った。
結局その動物は道路を渡らず、通り過ぎる僕をじっと見ていた。
公園には先客がいた。
僕がいつも座っているベンチには、その日はひとりの女性が座っていた。
こわすぎる。
でもおそらくその女性は僕が公園に入って来たことに気付いているだろうし、ここで踵を返すのも失礼かもしれない。
僕は自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチから少し離れた花壇のレンガに腰掛けた。
ちょっとコーヒーを飲みに来ただけの人、コーヒーを飲んだら帰る人、と自分に言い聞かせた。
考えてみると、女性のほうがこわいだろうな、と思った。
深夜の公園で知らない男と会いたくなんてないはずだ。
僕が缶コーヒーを一気飲みしようとしたところで、女性が話しかけてきた。
「あの、変質者とかじゃないんで、安全なんで」
僕は笑ってしまった。
僕と似たようなことを考えていたのか。
「なにか飲みますか?」と僕は言った。
彼女は僕より10歳くらい年上だろうか。
彼女も僕と同じ缶コーヒーを買った。
そして、彼女も僕と同じで眠れない人だった。
「いつから眠れない?」と彼女は言った。
「いつからだろう。たぶん、徐々にだと思うんですけど、引っ越してからははっきりと眠れなくなったのがわかりました」
「ここの人じゃないんだ」
「そうですね」
「地元はどこなの?」
「ないんです」
「ない?」
「なくなりました」
彼女はなにも言わなかった。
「だからたぶん、この先もずっと知らないどこかで生きていくんです」
「そうなんだね」
「べつに、しょうがないと思ってます。考えてどうにかなる問題じゃないし」
「私は、こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、ちょっとうらやましい」
「へぇ」
「なんにも変わんないし、変えられない毎日より」
僕はすこし考え、缶コーヒーをひと口飲んだ。
「あの日、なにかが変わると思ったの。ぜんぶ変わっちゃうだろうって。リセットされてしまうだろうって。でも結局、世界はなにも変わらなかったって思った。でもごめんね、君の人生は変わっちゃったんだね」
「いや、いいんです。大丈夫」
「私、すぐ変なこと言っちゃうんだよな。すこし考えてから話さなきゃって思ってるのに」
彼女はそう言って、両手の親指でこめかみを押した。
僕はその姿を見て、ある人を思い出した。
僕の癖は、小さな頃に好きだったお姉さんがしていたものだ。
もちろん目の前にいる彼女ではない。
お姉さんはもういない。
「どうかした?大丈夫?」
「いや、なんでもないです。大丈夫です」
「わぁ、なんか話し込んじゃったね。ちょっと明るくなってきた」
「ほんとだ。もう帰んないと」
「明日学校?」
「明日っていうか、数時間後ですね」
「そっか。私も帰らなきゃ。コーヒーありがとうね。財布置いてきたからのど乾いてた」
「いえ、じゃあまた」
また?僕はどうしてまた会えると思ったんだろう。
そんな気はしていたんだけれど、あれから何度公園に来ても彼女には会えなかった。
もしも僕が大人だったら、と思う。
もしも僕が大人だったら、彼女の人生を変えられたり、お姉さんに僕を救わせずにすんだりしたのだろうか。
僕はこめかみを両手の親指で押したあと、缶コーヒーを飲み干した。
夜がまた終わろうとしていた。
東の空はもう明るくなりはじめていた。
僕は夜明けの空に向かって空き缶を投げた。
空き缶はいつまでたっても落ちてくることはなかった。
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