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小説:ブーゲンビリアが咲いていた夏 【2000字ジャスト】

目を覚ましたのがとても早い時間だということは、室内を染めている光の青さでわかった。
ただでさえ場所が変わるとうまく眠れない僕が、公民館なんかで眠れるはずがないのだ。
それは町内のお泊り会の朝だった。
まわりの大人達も、もちろん子供達も、まだぐっすりと眠っていた。

僕が目を覚ました理由はもう一つあった。
誰かがトイレを流す音がしたからだ。
僕はなんだか気まずかったので、まだ眠っているふりをした。
その音の主が再び布団に入るのを待ったが、しばらくしてもその様子はなかった。
薄目を開けてみると、僕のすぐそばに、彼女は立っていた。
驚いた僕は思わず、鋭く息を吸った。
しかし彼女は、僕が起きていることに気付いてそこに立っていたわけではなく、窓の外を眺めていただけだった。
僕の気配に気付いた彼女は、とても小さな声で「おはよう」と言った。
僕も同じくらい小さな声で「おはよう」と答えた。

彼女は僕より一つ年上で、同じ町内といってもとくに親しいというわけではなかった。
小学生くらいの年頃というのは、一つ歳が違うだけで別世界の住人のように感じるものだった。
ましてやそれが、少年と少女となると。
「ね、外に行ってみない?」
彼女は悪い遊びにでも誘うような、魅力的な笑顔で僕に言った。

今思えば早朝の散歩などむしろ健康的なくらいなのだけれど、その時の僕にはとても悪いことのように感じられた。

僕たちは、まだ眠っているみんなを(とくに大人達を)起こさないように、慎重に玄関へと向かった。
靴を履きながら、僕たちは次第に急ぎ始め、出来るだけ音を立てないように少しだけ開けた玄関の戸をすり抜けた。
なんとか気付かれずに外に出ると、緊張感から開放された僕たちはくすくす笑った。

昇り始めたばかりの初夏の太陽が、朝露を金色に輝かせていた。
陽が当たっていない場所はまだひんやり感じるくらいの、涼しい夏の朝だった。

「はい」と言って、彼女は僕になにかを手渡した。
それは黄色いセロファンに包まれた飴玉だった。
「アメあげる。ポケットに入ってた」
ちょうど寝起きの空腹感を感じていた僕は、それをありがたく受け取った。
住宅街のいちばん外れにある家の庭に、とても鮮やかな赤い花が植えられていた。
僕は思わず足を止め、その花を眺めた。
「それね、ブーゲンビリアっていうんだよ」と、彼女は僕に教えてくれた。
ポケットに飴玉を入れていたり、花の名前を知っていたり、女の子は忙しいのだなと、僕は感心した。
「お母さんが好きでね、そのお花。私も好きなんだ」
僕たちが田んぼ道に差し掛かった時、市役所のスピーカーから六時を告げるチャイムが聞こえてきた。
「そろそろみんな起きてるかもしれないね」と、僕は言った。
「怒られちゃうかな」そう言った彼女は、なぜだか少しわくわくしているように見えた。


彼女と再び話す機会が訪れたのは、それからずっと後のことだった。
僕の祖母の葬儀に現れた彼女は、幼い頃の少女性を少しも失うことのないまま、美しい女性に成長していた。
彼女は、市内の花屋で働いているということだった。
それを聞いて、僕は嬉しくなった。
花が好きな女の子は多いけれど、本当にお花屋さんになる女の子などそう居るものではない。
とはいえ、あまり健全とはいえない若者だった僕には、花屋に用事などあるはずもなかった。
どんなに世間に疎まれようがお構いなしだった僕でも、彼女との世界が離れてしまったことだけは、少し寂しく思った。

僕たちは線香臭い葬儀会場を抜け出し、花壇のふちに並んで腰掛けた。
「ブーゲンビリア、覚えてる?」
「あの、赤い花?うん、覚えてる」
「ほんと?嬉しいな。私ね、まだあの花好きなんだ。お店にもちょっと多めに置いちゃうの。ブーゲンビリアを見てるとね、あの朝のことを思い出すんだ。あれ、楽しかったよね。今度買いにおいでよ。いつでもブーゲンビリア置いておくよ」
僕は嬉しさよりも、逃げ出したい気持ちになった。
こんな僕の日常のどこに花を置けばいいというんだ。
曖昧な返事で答えを濁した僕は、逃げるようにして会話を終わらせ、会場へ戻った。


あれから僕は、ごく普通の会社に就職して、ごく普通の結婚をした。
少しでも彼女の住む世界に近づきたかったのだと思う。
しかしいつしかそんなきっかけすらも忘れてしまい、ただ毎日を消化するように、当たり前になった普通を生きていた。

僕がそんな昔の事を、そして彼女の事を思い出したのは、妻がブーゲンビリアを買ってきたからだ。
仕事を終え、疲れて帰ってきた僕は、テーブルの上の赤い花を見た瞬間、しばらく身動きがとれなくなった。
一瞬にして僕の心は過去に引き戻され、その間、すべての感情が消えていた。
妻はそんな僕の様子に気が付くこともなく、インターネットで調べたらしいブーゲンビリアの話をした。
気が付くと、僕は泣いていた。
ブーゲンビリアの花言葉なんて聞かなければよかった。

君は今、誰と、どこにいるんだろう。

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