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小説:ラニアケア・チルドレン 【2000字ジャスト】

「猫人間コンテストしよ」と鈴木は言った。
僕は今年何十回目かわからない「どういうこと?」という返事をした。
鈴木の言うことが一発でわかったことのほうが少ない。
「あの、あれの猫版」
「そこまではぎりぎりわかる。競技内容がわかんない」
「それは今から考えよ」
「考えてから提案してほしかった」と僕は言った。

僕と鈴木が廊下で丸くなって寝ていると、先生が通りかかった。
「いや、事件じゃん」と先生は言った。
「先生、どっち?」と鈴木が言った。
「犯人が?」
「どっちが猫?」
「先生そういう下ネタはきらいだな」
「下ネタ?」
「あ、なんでもない。どういう状況?」
「猫っぽく寝てたのどっちですか?」と僕が通訳した。
「んーとね、授業はじめたいから両方の猫に教室に入ってほしい」
僕と鈴木は「シャー!」と言った。

秋になると、僕は夜に散歩をする。
誰もいない夜の底を泳ぐように気ままに歩く。
目的地はもちろん無い。
このままどこか別の世界に迷い込んでしまうのではないかとワクワクする。
聞こえるのはたくさんの虫の声だけだ。
それ以外はなにも聞こえない。
僕はそんなうるさくて静かな夜が好きだった。
ときどき鈴木からのふざけた電話で阻止されることはあったけれど。

ところで、僕は風呂に入らない。
そのかわり、シャワーは一日に二度浴びる。
水が苦手とか、体質的な問題ではない。
ただ、よくわからなくなるのが苦手だった。
お湯に身体を包まれると僕は必ず困惑する。
どうして気持ちいいのだろう。
どうして懐かしいのだろうと。
とはいえ、しのごの言わずにさっさと入らなければいけない状況のときは入る。
修学旅行のときだとか、部活の合宿の夜だとか。
説明するより僕が諦めたほうが早い。
だから断固として入らないというわけではない。
そんなときはできるだけなにも考えないように、無心で一瞬だけ入る。
湯舟に浸かっていると、僕はどうしても考えてしまう。
僕が知らないはずの懐かしさについて。

「君のお父さんから、入学のときにいろいろ話は聞いてる」と、ある日先生は言った。
「はい」
「俺はそっち方面のこと全然詳しくないから、正直言うといまだに混乱するんだけど」
僕は僕のせいで混乱する人を今まで何人も見てきた。
「君のお父さんがそう言うなら、そうなんだろうなぁ」
先生は顎に手をあてて首を傾げた。
「小さい頃からそう聞かされてたけど、僕もよくわかりません」
「伏せておくなら話合わせるけど、どうする?」
「そのほうが、たぶん」と、僕は曖昧な返事をした。
「お父さん、今は海外の研究所?」
「そうですね」
「人工子宮かぁ」
僕と先生はいっしょに首を傾げた。

小学生の頃、チャールズ&レイ・イームズが作った動画を見たことがある。
ミクロからマクロへシームレスに視点が変わっていく動画だ。
なにかの授業だったか、自分で見つけたのかは思い出せない。
僕はそれを見て、僕はいったいどこにいるのだろうと思ったが、それだけだった。
ラニアケア超銀河団の画像を見ても、ちっとも視野は広がらなかった。
僕は手の届く範囲のことで精一杯なのだ。
宇宙の地図なんかを気にしている余裕はない。
自分の気持ちすらさっぱりわからないのに。

部屋で洗濯物を畳んでいると、着信音が鳴った。
僕が電話に出ると、「もしもし」と鈴木は言った。
いつもの鈴木なら、必ずなにか嘘の肩書きで電話をしてくる。
「〇〇警察署ですが」とか、「株式会社〇〇です」だとか。
普通に「もしもし」なんて言うはずがない。
僕は身構えた。
「どちら様ですか?」
「いや、俺」
「どうした?」
「あのさ」
「うん」
「んーと」
「なんだよ」
「今日、学校から帰ってる途中で、お前の母さんって人に話しかけられた」
僕は返事ができなかった。
「お前の様子とか、いろいろ聞かれた」
「うん」
「元気だよって言っておいた」
「そっか」
「あのさ…んー、いや」
電話の向こうで悩む鈴木が目に浮かんだ。
「なんか、俺にできそうなことあったら言ってな」
「ありがとう」と言って僕は電話を切った。
僕は残りの洗濯物を畳んだ。

その夜、僕は風呂に入った。
そしてできるだけたくさん泣いた。
泣くべきだった数えきれない夜のために。
目を逸らすことに慣れてしまっていた幼い頃の僕のために。

風呂からあがると、とても疲れていた。
風呂に入るのって大変なんだな。
僕は慣れない熱をもった身体を冷やすために散歩に出た。
星もない、真っ暗な夜だった。
なにを考えるべきかわからなかったので、なにも考えずに歩いた。
耳鳴りがするほど賑やかなはずの虫の声は、なぜか無音に近い音に感じた。
手で耳をふさいだときのようなその音を、暗い道の上で僕はじっと聞いていた。

いろいろと考えるのはあとでいい。
この先いくらでも時間がある。
どちらでもいい。
父の話が本当なのか、あるいは事情があって嘘をついたのか。
今はただ、この柔らかな闇に身を任せていようと思った。

目を閉じると、ぼんやりと光が見えた。
「お母さん」と、僕は言ってみた。

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