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小説:EMBERS

取調室は、映画やドラマで見ていたものとは随分様子が違った。
顔を強く照らすためのライトもない。
西日が差し込む窓もない。
至って簡素なひとつのデスクと、プリンターだけがあった。
デスクの片隅には、おそらくインクが色移りしてしまったのであろう染みがあった。
その染みは、なぜかあまりよくない印象を与える文字に見えた。
もちろん具体的な意味を為している文字ではない。
それはまるで僕が失った平常心を嘲笑うかのように、いろいろな文字に変化した。
前と後ろには鍵のかかるドアがあり、その一方のドアの横にはいけ好かない白の電話が据え付けられていた。

「あっ、すみません。お待たせして」
と言いながら、豊田さんがノート型のPCと分厚い紙束の入ったトレーを手に取調室のドアを開けた。
その紙束には、おそらく僕のあらゆる情報がぎっしり詰まっているのだろう。
あるいは僕の知らない僕のことまで。
「えーと、今日もまぁこれからまたお話を聞かせていただくんですけど、トイレとか大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」と僕は答えた。
「煙草とか吸いたかったら、ぜんぜん吸いに行ってもらっても大丈夫なんで」
「あ、はい。大丈夫です」
「すいませんね、何回も来ていただいて」
「いえ、とんでもないです」
僕と豊田さんは、そうしてもう何度目かわからない会話をした。
授業が始まるときの「起立、礼」のようなものだ。
それはトイレを済ませている前提、煙草を吸いに行けるような空気ではないという前提でのやりとりだった。

「えーと、前回はどこまでお伺いしたんでしたっけ」と言いながら、豊田さんは紙束を探った。
それがあくまで「大したことではない」と思わせるための素振りであることは、あらかじめ貼り付けられていた付箋紙の位置から伺えた。
素振りという側面でいえば、僕と豊田さんはお互い様だった。
僕はあくまで狼狽えているふりをしていたし、豊田さんはあくまで親身になっているふりをしていた。
憔悴している表情は得意だった。
その実、僕は話の展開に応じて都度頭を働かせながら、不利になる証言をしないよう、証言が矛盾しないよう、裁判官に悪い印象を与えないような言葉を選択していた。
豊田さんだって似たようなものだろう。

豊田さんのノートPCには、USBメモリが挿さっていた。
僕はそのUSBメモリに結び付けられていたちいさなテディベアが気になった。
それはただ単に署内での識別のためにつけられたもので、とくに意味はないのだろう。
しかし僕はどうしても、小学生の頃を思い出さずにはいられなかった。
それは僕の好きだった人の誕生日を表すバースデーテディと似ているような気がして仕方がなかった。
無性に腹が立ったが、なにに対して怒ればいいのかはわからなかった。
強いて言えば偶然に対してなのだろうけれど、もちろんそれが馬鹿げていることは理解できた。
あのバースデーテディはどうしたんだっけ。

「この黒ミミの紙に印刷したものを読み上げますんで、一緒に目で追いながら読んでください。それで間違いや訂正がなければハンコを押してもらっておしまいですので」
訂正などあるはずはなかった。
それは豊田さんが書いた調書なのであって、僕が書いたわけではないのだから。

建物を出た瞬間、急激に体が重くなった。
車でひと息つくよりも、一刻も早くここから離れたかった。
かと言って、まっすぐ自宅に帰るのも嫌だった。
空気や気配のようなものを、自宅に持ち帰りたくなかった。
僕は自宅とは逆の方向にウインカーを点けた。
背後から豊田さんが見ているような気がした。

綺麗な夕焼けでも見られればよかったのだけれど、夕陽はもう沈み終わろうとしていた。
雲の隙間から辛うじて見えた太陽は、燃えカスのようにしか見えなかった。
その惨めさに仲間意識のようなものを抱きながら、僕は煙草に火を点けた。
その時ふと、バースデーテディのことを思い出した。
僕はそれを燃やそうとした。
好きな子と同じ誕生日のバースデーテディを持っているということが突然恥ずかしくなって、誰かに知られてしまう前に燃やしてしまおうとしたのだ。
けれど裏庭で燃えていくその姿に耐えられなくなって、僕は急いで火を消した。
自分が結局なにをしたかったのかわからなくなって、僕はバースデーテディの燃えカスを手にしたまま裏庭で泣いた。

僕はなにも成長していない。
ダメな部分はダメなままで、これから先もずっと僕の中に存在し続けるのだろう。
誰かの声を聞きたくなったけれど、きっと今はいちばん誰にも電話をかけるべきではない時だ。
やれやれ、と僕は思った。
「やれやれ」なんて本当に言う人間おらんやろ、と思っていたのに。

その時、僕は西日に気がついた。
風の具合なのか、あるいは雲の具合なのか、燃えカスだったはずの夕陽がふたたび光を取り戻していた。
僕はもう一度、やれやれ、と思った。
こんなに簡単に勇気づけられてしまう自分にうんざりしながら、僕は涙を拭った。

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