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小説:宇宙おじさん 【2000字ジャスト】

「そこまで言う?」と母が言ったので、私は犬の散歩に行くことにした。
トラブルが起きる直前の部屋は独特の匂いがする。
その匂いを感じたとき、私はいつも犬に道連れになってもらった。
哀れな皿がゴミになる音を聞く前に。
脱出する口実にされる犬には悪いかなと思った。
けれど、犬はいつも「え?散歩?いいんですか?」という顔で私に微笑んだ。

犬は私よりずっと嗅覚が優れている。
だから、私よりずっと早く不穏の匂いを感じとることができた。
そして私の不安の匂いも感じることができた。
しかし、バカなふりをしているときの自分の匂いには気付いていないようだった。
犬の背中は優しい匂いがした。

街は日が暮れようとしていた。
どうして私はこんな薄ら寂しい夕暮れの中にいなければいけないんだろう。
せめて陽の当たるところにいさせてくれればいいのに。
太陽が沈むのに負けない速度で隣町に移動し続ければ、あるいはさみしさもまぎれるだろうか。
私は少し想像してみて、頭を振った。
それは子供の私がこの街から逃げ出すことくらい不可能だ。

私の横を歩いていた犬の足が止まった。
ふと道の先を見ると、宇宙おじさんがいた。
宇宙おじさんは今日も空を見上げていた。
暗くなっていく空を眺めながら少しずつ見る方向を変えている。
ひまわりかよ、と私は思った。

宇宙おじさんは、どこの街にも一人はいる、いわゆる変人と呼ばれている人だった。
クラスメイトはいつも、宇宙おじさんにまつわる嘘か本当かわからない噂話をしていた。
誘拐犯らしいよ。
宇宙人らしいよ。
実はすごい金持ちらしいよ。
100メートルを8秒で走るらしいよ。
CIAのスパイらしいよ。
私は余計なことに巻き込まれないように、宇宙おじさんに気付かれる前に道を変えた。

日曜の朝だというのに、いつもの匂いがした。
私はおなかがすいていたけれど、犬の散歩に出た。
財布に小銭はあったかな。
どこかでパンでも買って食べようかな。
犬にも半分あげよう。

川の土手に座ってパンを食べていると、ふと気付いた。
私は最近、表情って作れていたっけか。
嬉しい顔、悲しい顔、驚いた顔、どれもできなかった。
私はとっさに顔を伏せた。
顔を見られたくない。
見られたらまずい気がする。
心臓の音が速くなった。
どうしよう。

肩に何かがばしばし当たるのに気付いて、私は少しだけ顔を上げた。
犬のしっぽが私を叩いていた。
私の気も知らないで、なにを嬉しそうにしているんだ。
「大丈夫ですか?」と宇宙おじさんが言った。

こんな時に、と私は思った。
こんな時に変な人に話しかけられるなんて。
いや、そうじゃないかもしれない。
表情をなくしてしまった私のほうが変な人なのかもしれない。

「具合悪いんですか?」
「なんでもないです」
「でも、顔色すごく悪いですよ」
表情は変わらないのに、顔色は変わるんだな。
そう思った瞬間、私は泣き出してしまった。
「えっ、えっ、まずいまずい。どうしたどうした」
宇宙おじさんはあわてた様子で言った。
「どこか痛い?僕いなくなったほうがいい?あ、その前に救急車とか呼んだほうがいい?」
私は首を振った。
「どれでもない」

私は自分のことを話した。
そういえば誰かに自分のことを話すのははじめてだった。
宇宙おじさんは犬の頭を撫でながら話を聞いていた。
宇宙おじさんは少し考えてから言った。
「ちょっと空を見てごらん」
私は空を見た。
どうしようもなくくだらないいつもの青い空だった。
「綺麗な星空だろう」と宇宙おじさんは言った。
やっぱりこの人はあたまのおかしい人だったのかと、私は思った。
「実はこの青空も、見えていないだけで満点の星空なんだ」
私は首をかしげた。
「んーと、なんて言っていいかわかんないけど」
私は逆の方向に首をかしげた。
「たとえば、君が見ているものが、僕の見ているものかな、っていう」
「よくわかんない」と私は言った。
「そうだよね。ごめんね。難しいな」
「でもなんか、たぶんちょっとわかる」
宇宙おじさんは少し安心した顔をした。
「諦めないでね。君に今見えている残酷な景色が世界の全部じゃないから。君のおうちが世界の全部じゃない」
「ふーん」と、私は言った。
「君はこれからどんどん大切なものを見つけていくよ」

しばらく川を眺めたあとで、私は聞いてみた。
「おじさんは宇宙人なの?」
「そうだよ」とおじさんは答えた。
やっぱり宇宙人だったんだ。
「君も僕も宇宙人だよ」
「わたしは違うよ」
「そのうちわかるよ」とおじさんは言った。

「クラスのみんなが、おじさんのうわさしてた」
「え、聞くのこわいな」
「おじさんは、なんの人なの?」
「普通の人だよ」
「でも普通の人は外をぶらぶらしてないよ?」
おじさんは笑った。
「普通の、えーと、調べものをしてる人」

「わたし、表情が戻ってくるかな」
「大丈夫だよ」
「どうして?」
「さっき泣いたとき、すごく泣き顔で泣いてたよ」
「そっか」
「大丈夫」
おじさんが大丈夫と言うなら、大丈夫なんだろうな、と私は思った。

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