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【小説】 ラテ

庭にときどき猫がくる。
餌を与えたりはしないし、名前をつけたりもしない。
ただそこにいるだけの猫だ。
神妙な顔で通り過ぎるだけの日もあれば、虫を捕まえる姿を見られる日もある。
ちょっとした楽しみではあるけれど、僕はそれを待たないようにしていた。
猫の来ない日が必要以上にさみしくならないように。

「あたしでも飲めるコーヒー見つけたんだ」
ベンチに座っていた僕の隣にバックパックを置きながら、彼女は挨拶もせずに言った。
「コーヒー?」と僕は言った。彼女はコーヒーが苦手だったはずだ。
「コーヒー飲めるようになったの?」
「コーヒーは飲めないよ?」と、ベンチに腰掛けながら彼女は言った。
「これ」と、彼女はバックパックのサイドポケットからペットボトルを取り出した。
「ピスタチオラテ」
「そう。これ美味しかった」
「それは、コーヒーなの?」
「コーヒー飲料って書いてるし。ならコーヒーだよ」
「苦手なんだよね?」と僕は確認してみた。
「味はね。香りは好きなんだ」
「たぶんわかる」と僕は答えた。僕はコーヒーが好きなので、それは想像でしかなかった。
「だから、小数点以下の割合なら飲めると思う」
「そこまでして飲まなきゃいけないの?」という僕を無視して、彼女は続けた。
「遠くに、ずーーっと遠くにコーヒーを感じる程度なら好き」
「コーヒー豆を手に持って、それをときどき嗅ぎながら飲み物を飲んだらいいかもね」
「なんでそんなことしなきゃいけないの?」
「それはたしかにそう」
僕は続けてなにかを言おうとしたけれど、結局なにも言えずに笑った。

ひと月ほど前、しばらく猫が姿を見せない時期があった。
はじめのうちは、気まぐれな猫らしさについて、微笑ましい気持ちでいた。
しかし猫を見かけない日が1週間ほど続いた頃、気が付くと僕は猫のことを考えていた。
それはほとんどが悲しい想像だった。車に轢かれた姿であったり、狂った人間に殺される光景であったり、病気になって誰もいない廃墟でやつれていく姿だったりした。
僕はそのたびに気持ちを切り替えなければならなかった。
僕の猫じゃない。猫も僕を選んだことなんてない。ましてや猫は僕の顔すら覚えていないだろう。僕が気にする必要はない。そして猫は失われたわけではない。どこかで好きに生きているのだろう。
でも、と僕は思う。失われていないと決まったわけでもない。
僕が「おいで」と声をかけて、ごはんをあげていたら、家に招き入れていたら。
猫にLINEでも聞いておけばよかったかな、と僕は思った。半分冗談で、半分本気だった。
翌日、猫はなにごともなかったかのように庭を横切った。
机に頬杖をつきながら笑っている僕を、猫は一瞬だけ横目で見てくれた。

彼女は僕を見つけると、いろいろな話をする。
僕は相槌を打つ。教えられることがあれば教える。知らなかったことを教えてもらえたら感心する。ときどき冗談のようなことも言う。
しかし、話題が彼氏の愚痴である場合には、僕は途端に話を聞くのが下手になる。
よくわからないし、アドバイスなんてこともできない。経験もそれほどないし、あまり興味もない。余計なことを言ってしまわないように気を付けるだけで精一杯になる。
おそらく彼女は誰かにアウトプットしたいだけであって、問題を解決したいわけでもないのだろう。であれば、ほどほどに相槌を打つだけの僕はそれに適した相手ということになるのかもしれない。
しかしそれは起こった。

猫が見当たらなかった1週間ほどの間の出来事だった。
彼女はいつものように愚痴を話した。
彼氏が金を返さない、浮気された、嫌気がさしている、でも別れるほどじゃない、そんなような話だったと思う。
気が付くと、僕は相槌を打っていなかった。
そのかわりでもないけれど、言葉が出ていた。
「彼は君の飼い主じゃないよ」
「わかってるけど」と彼女は言った。僕が思いがけず口を挟んだことに、ほんのすこし動揺しているようだった。
「でも最初に付き合った彼氏だし、別れたら後悔しそうだし」
「彼は君の飼い主じゃない。最初に懐いたからといって、虐げられて、餌を与えられなくて、そんなつらい思いをしながら一緒に居る必要なんてない」
僕はおそらくひどいことを言っていた。
僕の声は、ドアの外から聞こえる音のように奇妙な響き方をしていた。
「ときどき撫でてもらえることを心の支えにしちゃいけない。それで全てを誤魔化されてちゃいけない。そんな生きかたをしていたらいつか誰かを、たとえば君の子供を守ってあげられるような存在にはなれない」
彼女はなにも言わなかった。
傷ついているのか、怒っているのか、僕にはわからなかった。
「帰るね」と彼女は言った。

庭で猫がうんこをしていた。
それははじめて見る光景だった。
彼女のLINEへの返信を考えながら、僕はそれを眺めていた。
あだ名くらいはつけてもいいのかもな、と僕は思った。
「ラテ」と、僕はためしに猫を呼んでみた。
ラテは小さく鳴いた。


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