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小説:ファイアズ 【2000字ジャスト】

踊り場の大きな鏡には、一か所だけ歪んでいる部分があった。
誰かが、ガラスは液体だと言っていた気がする。
古い校舎の古い鏡だから、そんなこともあるのかな、と私は思った。
おそらくは誰も気にしていないし、もしかしたら気付いてもいない。
見上げないと見つけられない部分だし、誰も映ることのない部分だから、わざわざ気にする必要もないのだろう。
その歪みを見つけたのは偶然だった。
私は鎖骨のあたりに赤い痣がある。
シャツをずらさなければ見えないような場所だけれど、私は時々それが気になった。
鏡の前でシャツの襟を直したついでにその痣を見ようと首を上げ、鏡の歪みを見つけた。
それ以来、私は鏡の前を通るたびにその歪みに目をやってしまう。

私はどちらかというと、大人しい生徒だった。
できるだけ目立つようなことは避けていたし、なにかの行事がある時には必ず裏方を選ぶようにしていた。
髪型も普通であることに気を付けていたし、成績も中間に位置するように気を付けていた。
それでも放送委員になりたいと思ったのは、リクエストのない日は好きな音楽をかけられたからだ。
昼食の時間に流す音楽は、基本的には生徒のリクエストした曲が流される。
そして誰がリクエストしたものかまでは言わない。
私は学校という空間の隅々までUKロックが響き渡る光景を想像した。
それはとても素敵な光景だった。
たまに自分の声で放送しなければいけない緊張感さえ我慢すれば、と私は思った。
幸運なことに、クラスで放送委員に立候補したのは私だけだった。

放送委員は私のほかにもう一人、先輩がいた。
髪が長くて無表情なその先輩は、とくに音楽が好きというわけでも、話すのが好きというわけでもなかった。
放送室でひとりで昼食が食べられるから、という理由で放送委員になったらしい。
昼休みの放送室だけは、教師の監視の目が届かない空間だった。
もしかして私は邪魔だったかな、と思ったけれど、先輩は言った。
「よかった。あたしだってたまに休みたいと思ってたんだ」
「よろしくお願いします」
「交代でいい?日替わりでも、週交代でもいいし」
「えっと」
「あ、まだわかんないよね。後々決めよう」
私たちはしばらくの間、放送室で一緒に昼休みを過ごすことになった。
先輩は話してみると恐い人ではなく、ただのめんどくさがり屋だった。

放送担当はいちおう日替わりということになったが、先輩の気分次第というのが実情だった。
私はそれが楽しかった。
先輩が私を楽しく振り回してくれるのが嬉しかった。
そうしていくらかの時間が過ぎていった。

ある日、全校集会が開かれた。
教師はその出来事について、ごちゃごちゃとした長ったらしく内容の無い経緯を説明した。
しかし私はずっとひとつの疑問について考えていた。
なぜ先輩が退学にならなくてはいけないのだろう。
先輩がある教師と交際しているという噂は知っていた。
教師のほうは、転職すればいいだろう。
しかしなぜ先輩は、一生に一度の学生である権利を奪われなくてはいけないのだろう。

私はふと、母のことが頭に浮かんだ。
私は自分の痣が好きだった。
生まれてきた私の痣を見て、親族は母を責めた。
おなかにいるときに火事でも見たんじゃないか、女の子なのにかわいそうだと。
母は辛い思いをしただろうと思う。
でも私は私の痣が好きだ。
そんな迷信が本当だとしても、それは私が母から生まれてきた証拠になるから。

ひとりになった放送室を眺めながら、私はぼんやりと考え事をしていた。
自分の中になにか不思議な熱があるのを感じた。
翌日から、私は放送室の棚にCDを増やし始めた。
それ以外は、至って地味ないつもの私の日常だった。

全校集会から数日経ったある昼休みに、私は放送室のドアに鍵をかけた。
そして私は、最大音量で学校中に好きな音楽を流しはじめた。
教師たちはなにかのミスかと思ったのだろうか、とくに何も言ってこなかった。
しかし、昼休みが終わっても音楽が流れ続けると、さすがにドアの向こうから呼びかける声がした。
私はそれを無視して、音楽を流し続けた。
トム・ヨークが歌い、デーモン・アルバーンが吠え、リアム・ギャラガーが教師を殴った。
私はとても冷静だった。
ただ冷静に、淡々と曲を選び続けた。
「Fitter Happier」が流れ終わる頃に、ドアの鍵を壊そうとしている音が聞こえた。
私は入力をマイクに切り替え、短いメッセージを話した。
マイクのカフを下げたあとで、私はとても穏やかな気持ちになった。
なんてことをしてしまったんだろう。
なんて楽しいことをしてしまったんだろう。
どうしてこんなにすっきりしてるんだろう。
放送室のドアを叩く音がする。

それからしばらくして、謹慎明けの私は学校の階段であることに気が付いた。
踊り場の鏡の歪みがなくなっている。
誰かが見つけて修理したのだろうか。
鏡の修理なんてできるのかは知らないけれど。
よくわからない。
世の中のことなんてわかりたくもない。

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