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私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(3)

ベトナム戦争が終結したのは1975年ですが、第三次インドシナ戦争と呼ばれるカンボジア、中国との国境紛争は1990年まで長引きました。

そんな軍事政権下の1990年、私は1人でベトナムへと向かったのが前回までのお話。

インドシナ半島地図

戦後間もなかったベトナムでの国営公社の監視付きの窮屈な旅についてお話する前に、バンコク経由ニャチャン行きの飛行機の中でのエピソードをひとつ紹介します。

ベトちゃんドクちゃんの担当医師と隣り合わせて

タイのバンコクからベトナム中部の海沿いに位置するニャチャン軍事用空港への小型機に搭乗した私は、飛行機の座席で思わぬ人と隣り合わせになります。

米軍が化学兵器としてベトナム戦争中、散布した枯葉剤(高濃度ダイオキシン)について聞いたことがあるという人は多いと思います。

ベトナム中部高原地帯のコンテゥム省で1981年に産まれたベトちゃんドクちゃんを皆さんはご存知でしょうか?

左がドクちゃん、右がベトちゃん

彼らは、下半身がY字に結合し、足は3本、生殖器と排泄器は1つ、骨盤も1つ、腎臓1つ(後に2つと判明)という大変困難な結合双生児として誕生しました。
ちなみにコンテゥム省は、戦時下米軍に大量の枯葉剤を散布された地域です。

ベトナム戦争での枯葉剤散布作戦の様子

ベトちゃんドクちゃんの両親は大変貧しく、生後18日の彼らを自宅から100キロ離れたコントゥム病院に預け、そのまま姿を消します。

預けられた病院の院長は、結合双生児を救わなければ化学兵器の被害を証明することができないと考え、医師、看護師総出で感染症や好奇の目からベトちゃんドクちゃんを守ります。

コントゥム病院に限らずですが、当時ベトナムの病院は、何もかもが足りない状態で衛生面の管理は困難を極めました。

ベトちゃん、ドクちゃんもネズミに耳をかじられて朝になると泣いていたことがあったと、当時病院で母親がわりだった担当看護師が証言しています。

その後、少しでも良い医療を受けられるようにとホーチミン市内のトゥーズー病院に転院した彼らですが、1986年兄のベトちゃんが原因不明の急性脳症を発症してしまいます。

80年代日本外交のスピード感

当時のトゥーズー病院には抗生剤、殺菌剤、手術の糸すらない状況の上、結合双生児の分離手術を単独で行う技術力はありませんでした。
ベトナム赤十字社は、日本赤十字社にベトちゃんの助けを求めます。

そして要請を受けた3日後、日本赤十字社の4人の医師は、630Kgもの医療品、医薬機器と共にベトナム入りします。

80年代の外務省はこんなにスピーディーだったのか!と驚きます。

さらにベトちゃんの容態が安定した5日後、直行便のなかったベトナムから羽田まで、外務省の指示の下、JALがチャーター機を用意して、日本国内で緊急手術が始まります。

ベトナム人女医の亡命

その後、経過を見て日本国内で分離手術を行う予定でしたが、担当医だったベトナム人女性医師がなんと、赤坂にあるアメリカ大使館へ亡命してしまいます。

激怒したベトナム政府は急遽、ベトちゃんドクちゃんとベトナム人医師団、スタッフの全員をベトナムに呼び戻し、事態は思いもよらなかった最悪の方向へと急降下してしまいます。

それから2年後の1988年、ついにベトちゃんがトゥーズー病院で昏睡状態に陥ってしまい、ベトナム国内で緊急分離手術を行う以外選択肢はないというギリギリの状態が訪れてしまいます。

そこで「腕利きのキャプテン」と呼ばれるトゥーズー病院の故ズオン・クアン・チュン医師は、ベトナム人医師70名の大医師団を編成。
2年前、ベトちゃんドクちゃんの担当医だった日本人医師4名をベトナムに呼び戻します。
すべての医薬品、設備機器を日本赤十字社がサポートする形で、ベトナム国内で分離手術を行うという大勝負に出ます。

私が飛行機の中で隣り合わせたのは、日本医師団4名のうちのひとり、日本赤十字医療センターの麻酔科医S医師でした。

仲良く遊ぶベトちゃんドクちゃん

「兄弟のうち、どちらかを犠牲にすることなく手術を成功させよう!」

ベトナム国内で行われた緊急分離手術は、彼らを骨盤の中央部分から切り離し、神経系統の分割を行うという前例のない高度な手術だったため、世界中が注目していました。

17時間に及ぶ大手術は、無事成功を収め、兄弟片方を犠牲にすることなく双方の命を救いました。後にこの手術のレコードはギネスブックに認定されます。

総勢74名の大医師団の手術にいたるまでの詳細な記録は、ベトナムニュース総合サイト「VET-JO」の記事が秀逸で鬼気迫るものがありますので、ぜひ、一読ください。

ちなみに兄のベトちゃんは26歳の時、ご逝去されましたが、ドクちゃんは結婚して2人のお子さんに恵まれ、東日本大震災やコロナ禍に日本を支援するアクションを起こしました。

分離手術成功25周年式典の模様 四国新聞

飛行機の中でS医師は私に、

「実は世界的に注目された分離手術の後、幾度にもわたる大手術があり、小さな彼らは大変忍耐強かったんです」。

「明日も朝イチで彼らの手術があり、麻酔を担当するためトゥーズー病院に向かいます」。

「ベトナムには小さな子供の難易度の高い麻酔を担当する医師が今はいないのです」。

「指導することで今後ベトナムの医師の技術は飛躍的に発展すると信じています」などのお話をしてくれました。

S医師の話し方はとても快活で、ベトナムの未来は明るいと思わせてくれる力強さがありました。

2020年10月分離手術が成功した双子の女の子

今なお続く枯葉剤の影響

S医師の言葉通り、30年後のベトナム国内では枯葉剤の影響で結合双生児となった子供の分離手術を次々と成功させるようになりました。

2世代、3世代と続く化学兵器の罪の重さ。世界中が認識しなければ悲劇は繰り返されると痛切に思います。

2019年にホーチミン市を訪れた際も、枯葉剤被害の障害児を抱きかかえ、物乞いをしているお母さんを見かけて募金しました。
通りを行く若いベトナム人カップルや親子も募金していたので、戦争の爪痕を理解する気持ちはベトナム人には当たり前の感覚なのだろうと思いました。

こんな思わぬ出会いも私がベトナム料理屋を始める原因になった理由のひとつだと思っています。

ホーチミン市内の子供達 1990年








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