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小説、舞台、SNSを横断する多重の演技――西河理貴『【大好き】センパイを双子コーデでコロしてみた!』を読んだ

 これは西河理貴『【大好き】センパイを双子コーデでコロしてみた!』(以下『センコロ』)の読書感想文である。この文章の中で、私はいわゆるネタバレに対する配慮を一切していない。話の筋や結末を聞いただけで本を読む楽しみが損なわれてしまう人は、たぶん読まないほうがいいだろう。それから、まさかいないとは思うけれど、もしこれを読んでいる人の中に「ニシカワリキって何? おいしいの?」というレベルの知識しか持ち合わせていない不埒な輩がいたら、グズグズしていないでこの将来有望な作家の著書を買って読んだほうがいい。他人のつまらない感想を読むよりも作品そのものを読むほうが遥かに有意義な時間の使い方であると私は考える。電子書籍版の通常価格は1080円であるが、BCCKSでは現在216円の廉価版も販売している。そこらへんのコンビニ弁当よりも安い! そしてウマい!

 『センコロ』は、2018年11月に開催されたNovelJam 2018秋という二泊三日の創作・出版イベントで執筆された小説である。初日の午後に与えられた「家」というテーマに基づいてゼロから構想が練られ、三日目の朝までには作品が完成。その日の昼ごろには電子書籍として販売が開始した。本作は最終日に行われた当日審査において米光一成賞に輝き、二か月後のグランプリ戦では栄えあるグランプリを受賞している。

 ここで白状しておかなければならないが、かく言う私も作者の西河理貴と同じくNovelJam 2018秋の参加者である。しかも同じチームに割り当てられた仲間だ。私はTeam GOMERAの一員として『センコロ』が生まれる現場に居合わせていた。タイトルや登場人物の名前をめぐる西河と編集の波野發作のやり取りも聞いていたし、ほさかなおが手がけた電子書籍の表紙のデザインの過程にも立ち会い、下書きから完成までを目の当たりにした。もちろん物語の筋も大体知っていた。だが、きちんと作品を読むのはNovelJamから十か月も経った今回が初めてである。

 何と偽善と虚飾に満ちあふれたチーム愛! 「仲間」などと青春ドラマめいたキラキラワードを振りかざす一方で、その仲間の小説を読んですらいなかったなんて! そう言って人は私を責めるだろうか? 責めたければ好きに責めるがいい。合宿中の熾烈な三日間、さらにはグランプリの発表までの二か月間にわたって、私は自作の小説の面倒を見るのに手いっぱいだったのだ。言うなれば、私と西河はどちらも世話の焼ける赤ん坊を抱えたママ友であった。互いの子育ての奮闘に親近感を覚え、仲間として積極的に助け合う。でも心のうちでは、二人とも自分の赤ちゃんのほうが可愛いと思っていた。

 さいわい生後十か月の赤ん坊とは違って、小説の場合には夜泣きに悩まされることもなく、眠い目をこすりながら離乳食の準備をする必要もない。作品は自然と作者の手もとを離れていくし、対抗心やグランプリ受賞に対するやっかみといったコンペティション参加者ならではの面倒くさい感情も時間が洗い流してくれる。十か月経った今になってようやく西河の小説をNovelJam 2018秋というコンテクストから切り離し、一つの作品として冷静に向き合う準備が整ったのだと私は思う。そうやって虚心坦懐な気持ちで読んでみた最初の感想は「よく書けてるじゃん、これ」というものだった。

演技を演技する小説

 舞台は、とある2LDKのマンションのリビング。「(動画の開始。MAYUはソファに腰掛けている。前にローテーブル、その上にマグカップと複数枚のルーズリーフ)」と括弧でくくられ、演劇台本のト書きのように具体的かつ簡潔に場面が説明される。そしてMAYUと名乗る女性が独白を始める――『センコロ』は、作中で名前が明かされることのないMAYUのモノローグで全編が構成されている。そのモノローグは動画として不特定の視聴者に向けて配信されている。MAYUは世に言うYouTuberと同様、自分自身を撮影して配信しているのだ。被写体として視線を意識しながら語りかけるという状況には、本作の演劇性が色濃く表れている。

 演劇はストーリーの中でも鍵となる主題である。MAYUは高校時代、一歳年上の「センパイ」である光原茉理と出会う。新入生オリエンテーションで披露された舞台での光原の演技に魅了されたMAYUは、光原に同化するために演劇部に入り、高校卒業後は光原の通う大学に進学して彼女のマンションに転がり込み、服装や髪形を似せ、整形手術で顔の造りを近づけ、ついには光原を殺害して彼女の身分を奪う。動画の配信も、もともとは光原がMAYUの名義で行っていたものを勝手に身分を詐称して続けているのだ。身近な相手に対して同性愛的なニュアンスのこもった憧憬を抱き、その人物を演じて本人に成り代わろうとする物語はパトリシア・ハイスミスの小説『太陽がいっぱい』(The Talented Mr. Ripley、1955年)や、本作と同じく女性二人のルームシェアをテーマにしたスリラー映画『ルームメイト』(Single White Female、1992年)を連想させる。

 しかし別人を演じるという本作におけるテーマは、他の先行作品よりも重層的である。というのも最初にMAYUの憧れの対象となるのは、素の光原茉理ではなく、演技をしている光原だからだ。「体育館のステージ上で今まさに動いている彼女の美しさ」は、新入生のまなざしを意識して演じられた姿に他ならない。演劇部に入った後も光原が演じる男役の「二枚目の雰囲気」にMAYUは魅了され、卒業していく三年生への餞別公演で同じ男役を完璧に演じきることによって彼女の自負心は満たされる。さらに、同居を始めた後にMAYUが褒める光原のキンピラゴボウは「お母さんの味を再現」しようと試みたものであり、光原がMAYUとして行う動画配信ももちろん光原の演技の一形態である。MAYUは当初動画の中の光原の外見の違いに戸惑うものの、「魅せ方の研究のひとつ」として受け入れて、後になりすましの動画を配信するようになる。つまりMAYUは単に別人に成り代わろうとしているわけではなく、別人が他人のまなざしを意識して演技で作り出す虚構の姿にみずからも演技によって同化しようとしているのである。

 演技を演技することは、実像ではなく虚像に近づいていくことを意味する。本作では、反射・反映の描写が作中に繰り返し登場することによって、虚像への接近の過程が示唆されている。例を挙げると、冒頭近く、高校の演劇部でMAYUを最初に出迎える光原の「肩口まで伸びた黒髪が春の日を反射してきらめきながらはためく」様子などにさりげなく反射が描写されている。ここではMAYUに強く印象を残したものが、光原の長い髪そのものなのか春の日によって生み出された光の効果なのか、それともそれらが混然一体となったものなのかが曖昧にされている。中盤に入ると、MAYUと光原が双子コーデで街を歩くシーンで反映の描写が用いられる。二人の姿を映し出すショーウィンドウが真実の姿を暴露する鏡の妖怪「雲外鏡」に見立てられ、MAYUは光原との外見上の差異に思い悩む。私は寡聞にして雲外鏡という妖怪について知らなかったのでちょっとググった。下の図のような妖怪である。ひょっとするとゲゲゲの鬼太郎か何かにも出てきたかもしれない。

鳥山石燕「雲外鏡」『百器徒然袋』(ISBN 978-4-336-03386-4、パブリック・ドメイン)

 物語の後半では、反映のイメージがMAYUと光原の鏡像性を示すために用いられる。MAYUの自分への同化がエスカレートしていくことに恐怖を覚えた光原の「前から思ってたんだけど、あなたと話してると鏡に話し掛けてるみたい」というセリフはその最たる例である。ここでの鏡の比喩はMAYUの外見や行動が光原と瓜二つになったことを意味するだけでなく、光原が他者を演じることとMAYUが光原の虚像を演じることの相似関係を指していると解釈することも可能だ。高校の演劇部で男役を演じたり、外見を大きく変えて動画の配信をしたりすることを通して自分以外の何者かになろうとしてきたのは光原自身である。自分になりきろうとするMAYUを見ることは虚像を演じる自分自身の姿を見せつけられることに他ならず、それに対する光原の感情的な反発には少なからず自己認識への恐怖ないし同族嫌悪が含まれている。このシーンで光原が閉めた自室のドアに「ぼんやりと顔が浮かんでいる」点について、語り手のMAYUは「それはわたしの顔か、彼女の顔か、もはや判別がつきませんでした」と述べる。このドアの反映の描写は、二人が共に追求してきた虚像の顔が現前した瞬間をとらえたものであろう。

視線と演技の共犯性

 MAYUと茉理は二人とも動画配信という形で他者の目をプライベートな空間である自宅のマンションに引き入れることによって自分ではない虚像になりきる演技を行う。不特定の観客を相手に自宅をステージに変え、私生活を見世物にすること。それはYouTuber的な演劇性の実践である。茉理やMAYUが動画を使ってマネタイズしていたかどうかは不明だが、彼女たちにとって配信用のカメラは劇場の観客と同じ他者の目として機能していた。ところが茉理はMAYUとのルームシェアを始めたのを境にMAYUとしての動画配信をやめてしまう。「同居人に遠慮して動画を撮らないでいるのか、それともわたしが知らないと思っていて、知られるのを恥ずかしがっているのか、もしくは単にちょうど動画投稿に飽きてきたところだったか、本当のところはわかりません」とMAYUは思いを巡らせ、途中で配信を放棄した茉理に失望さえしそうになる。だが、茉理が配信用カメラの目を必要としなくなったとすればどうだろうか? 自分を慕う後輩との同居によって、茉理が動画配信とは別の形で観客を獲得したのだとすれば? 一見MAYUが加害者で茉理が被害者かと思われる二人の加害関係を倒錯した共犯関係として把握しなおすことができるのではないか?

 MAYUの茉理に対するまなざしは二人の会話シーンで強調される。カモミールティの芳香を嗅ぎながら、夜な夜な交わされる親密な会話。その中でMAYUはカメラとなり、被写体の茉理を克明に記録する。

その最中に、わたしは彼女の姿をくまなく目に焼き付けるのです。[…]今ならステージのスポットライトの中だけでなく、二人でお金を出し合った室内灯の下での何気ない仕草まで、つぶさに見ることができるのですから。LEDライトの下ですら、透き通るヘマタイトの瞳とバランスよく通った鼻筋や、葉脈だけが残ったような白く細い指が華やかに動くのを見るだけで、幸福な心持ちになりました。

 私が本作に見られる演劇性をYouTube的だと考えるのは、このようなクロースアップが効果的に用いられるためでもある。ここでは劇場のようにステージ上の演者と客席に座る観客が隔てられているわけではない。MAYUの凝視は茉理の肉体を細部までエロティックな対象としてとらえていく。いわば、MAYUは動画配信のカメラの役割を担った観客である。一方、茉理の瞳は鉱物であるヘマタイトに喩えられることによって眼球としての機能を否定されているため、彼女は見られる対象である演者として位置づけられていることが窺える。MAYUは凝視と同化の対象として茉理を必要とし、茉理は演技を見せる観客としてMAYUを必要としている。双方の欲求は、素の自分とは違う誰かを演じるという目的において一致している。二人にとって本来の自分たち自身の人格がまったく重要でないことは、肝心の会話の内容への言及がほとんど顧みられない点に示唆されている。MAYUにとって茉理は内面の捨象された美しいモデル/見本であり、茉理にとってMAYUは単なる眼球でありカメラなのだ。

 このような見る観客と見られる演者の関係は、MAYUによる茉理の毒殺シーンで再現される。二つのシーンの関連を強調するために、カモミールティが今度は殺人の凶器として再登場する。「彼女の苦しみはまるで、舞台上の迫真の演技のように見えました。最期の最期までエンターテイナーとして生きようとする女の生き様を見ているようでした」と説明されるとおり、毒を盛られて死ぬ茉理が悶絶し、血を吐き、息絶えるさまは芝居がかっている。一方、MAYUは「それを撮り逃してはならないという使命」にかられ、スマートフォンのカメラを構えて一部始終を録画することで観客の役割に徹する。そして茉理が絶命した後は「『どう? 今の演技』といたずらっぽく微笑みかけてくれるのではないかと錯覚してしまうような、美しい表情」の彼女の死に顔に唇を重ねる。茉理の死は、高校の演劇部や動画配信を通して他者を演じ、MAYUに対しては憧れのセンパイを演じてきたことの延長線上にある終幕であろう。

 MAYUの視点の語りでは、この殺人は同化しようとしても追いつくことのできない茉理の「歩みを止める」ための行為であると語られる。だが、演者と観客の共犯関係としてとらえた場合、この演劇的な死は素の自分以外の何者かを演じ続けた茉理がみずから招いた帰結であると解釈できる。茉理は最後まで役を演じきり、MAYUは茉理が演技をするために必要な観客の目となった。この観客の目の不在が、MAYU自身の自殺を茉理の死とは大幅に性質の異なるものにする。

 茉理の死後一年間茉理として生活してきたMAYUは、動画配信を再開してすべてを語り、茉理としての生活の完璧さをカメラに見せつける。茉理の死んだ日のちょうど一年後の同日、同時刻にカモミールティの毒をあおって死ぬことで、同化は完成すると彼女は確信している。ところが、いよいよ自殺をする段になって、MAYUは「待って。これじゃわたし、センパイと一緒には死ねないじゃない」と漏らす。段落ごとに行を空けた断片的なこのシーンの叙述の中で、このセリフは多義性をはらんだまま宙づりにされている。「一緒に」という表現は、茉理と「共に」死を迎えることができないという意味、あるいは、茉理と「同じように」死ぬことができないという意味を有しうる。前者の意味を取れば、一年間の間隙のためにMAYUは最後まで憧れのセンパイに追いつくことができず、結局孤独な死を迎えると解釈できる。だが、後者として解釈した場合はどうだろうか? 入念な演出の末に完璧に同化したはずの茉理の死と「一緒」でないものは何なのか?

 それは観客の存在だ。茉理はMAYUという観客がいたからこそ最後まで演技に徹することができた。だが、MAYUには自分を慕い、自分みたいになろうと熱いまなざしを向ける観客がいない。彼女は仮想の観客として動画配信のカメラを回しているものの、それは結局のところ存在するのかしないのかもわからない不特定の目に過ぎない。肉体と眼球をもった観客であったMAYUとは決定的に異なる。「カメラ……止めて、誰か……ちょっと……なんで誰も……なんで誰もいないのよ。なんで?」という途切れ途切れの問いは、茉理になりきった彼女の演技の結末を見届ける観客の不在を浮き彫りにする。観客のいない不毛な演技の最後に待ち受けるものは孤独な犬死にだけだ。

小説から演劇へ

 『センコロ』は電子書籍発売後、2019年5月11日、12日に池袋のCafe & Bar 木製劇場で舞台作品として上演された。演出および脚色は2018年2月に行われたNovelJam 2018の出場者である森山智仁が務めた。上演時間約30分に及ぶ公演は2日間のあいだに4回行われ、長谷川栞とひなたしおんがダブルキャストで2回ずつMAYUを演じた。

 「舞台にしたらいい」というのは、もともとは本作に審査員賞を与えた米光一成の授賞式での提言によるものであった。もちろん以上に見てきたように、本作の舞台劇との親和性は米光が指摘するまでもなく明白である。西河の小説は内容面では演技による同化を主題とし、形式面では戯曲を模したト書きとモノローグの構成によって演劇に接近していく。剛腕編集者、波野發作の人脈と行動力によってトントン拍子に舞台化の話が進んでいくのを私は必然的な流れとして眺めていた。

 残念なことに、東京から遠く離れた地方在住者である私は舞台版『センコロ』の上演を生で鑑賞する機会に恵まれなかった。私が作品を観ることができたのは、波野が二人の女優による二種類の上演を録画しておいてくれたことと、私が波野や西河と同じチームであったという幸運のおかげである。クラウド経由で届いた映像には一般的な商業演劇のDVDに見られるような編集や複数のカメラの切り替えはなく、三脚に据えられたカメラで上演の内容が録画されていた。客席に座った観客たちの後ろ姿や、時おり通路をせわしなく歩くスタッフの姿も映り込んでいる。あくまで内輪向けに記録を残すことだけを目的としたMOVファイルだった。その映像をノートパソコン上で視聴することは、実際に出演者と空間を共有するのとは異なる観劇体験を私にもたらした。自分のために演じられたわけではない演技を不特定の一視聴者として時間差をおいて享受する背徳感。それはどこか、インターネットの動画配信で他人が開示する私生活を覗き見る行為を思わせるものだった。

 西河の小説におけるモノローグの構成を踏襲し、舞台版は全編を通して一人芝居で構成されている。セリフは耳で聞いて理解しやすいように改変されている部分もあったが、原作の表現をそのまま使っている場面も多く見られた。カーペットの敷かれた舞台中央にはミニテーブル、上手側にはノートパソコンの置かれた机。それら最低限の小道具のみでマンションの一室が表現されており、ステージの手前に置かれた三脚に設置されたカメラに向かってMAYUが語りかける。劇中の場面の切り替わりは照明の色の変化で表され、動画配信の内容はステージ背景の壁に映像として投影される。MAYUと茉理のやり取りが落語のように一人二役で演じわけられることで、二人の登場人物の鏡像性が強調されている。

 特筆すべきは、この一人芝居を二人の女優が演じる点である。ほとんど同じセリフ、同じ展開、同じ演出でありながらも、異なる人間による演技によって雰囲気は大きく変わる。それは同じ物語を語りながらも別作品として成立している小説と演劇の関係に相似していると言えるだろう。個人的には、ボーイッシュな雰囲気のあるひなたしおんのあっけらかんとした演技よりも、重さを感じさせる髪型をして甘ったるい声でセリフを発する長谷川栞の演技のほうが原作の粘着質なMAYUにより近い気がした。また、劇中で高校時代のMAYUが茉理に披露する演劇として『ロミオとジュリエット』が引用されている。ひなたしおんの回では服毒自殺するロミオ、長谷川栞の回ではロミオの死後に目を覚まし、彼の遺骸に口づけをするジュリエットが演じられる。さらに、ひなたの回ではMAYUがカモミールティを飲むシーンでロミオが毒をあおるシーンのセリフが再び発せられ、序盤の引用が終盤のMAYUの死の伏線であったことが明かされる。二人の役者が持つ違ったイメージを活かした遊び心のある演出である。

 演出の中で疑問に感じる部分もないわけではなかった。ショーウィンドウに映った二人の姿を見てMAYUが顔の造りの違いに失望するシーンの直後には「この人と同じにしてください!」と整形外科医にせがむシーンが挿入されている。しかし、それからしばらく経った後、彼女が茉理に成り代わってMAYUという名で動画投稿を始めるシーンになって、「声を似せるのは、演劇の経験とボコーダーを駆使してどうにかすることができましたが、目鼻立ちに関してはどうしても、あの美貌を完全に再現することは至難の業でした。このとき、わたしは顔にメスを入れる決意をしました」と彼女は語る。ここでは単に時系列の混乱が生じているだけでなく、先のシーンでは即断であるかのように見えた顏の整形手術に対して「顔にメスを入れる決意」という、ある程度の躊躇と熟慮を示唆する言葉が用いられている。私はシーンとセリフの内容の違いに矛盾を感じた。

 小説の中でMAYUが毒を飲む直前に発する「待って。これじゃわたし、センパイと一緒には死ねないじゃない」という曖昧なセリフは、説明が追加されることでわかりやすくなっている。演出の森山はこのセリフのタイミングをMAYUが毒を飲んだ直後に移動し、さらに「待って、カメラ、誰が止めるの? これじゃあ、わたしセンパイと一緒に死ねない!」という内容に書き換えている。茉理の殺害の際にはMAYUがスマートフォンのカメラを止めることができたが、MAYU自身の死に際しては彼女の死後もカメラが回り続ける。「一緒に死ねない」というセリフは、このように二人の死の場面が違うものになってしまうことを指しているということが明確にされている。小説の中でも「彼女の最期の動画が二十秒程度ですから、そろそろこのカメラを止めなければいけません」と録画時間への細かい言及があることから、これはおそらく原作者である西河の意図でもあるのだろう。一年間かけて二人の部屋を完全に同一にするほど周到なMAYUがタイマー機能つきのカメラを買い忘れ、毒を飲むまでそのことに気づかないという点は若干説得力に欠ける気がしないでもないが、セリフの解釈としては妥当である。

 小説から舞台や映画へのアダプテーションは、一つの解釈を提示することでもある。アダプテーションを行う人間が原作小説を読み込んだ結果が翻案作品に反映される。その意味では、この終盤のセリフに加えられた改変は森山の読み、あるいは森山が西河に確認した結果の読みであると見なすことができる。だがその一方で、原作が持つ多義性を狭めてしまうという問題をアダプテーションは宿命的に内包している。作品の解釈は読者一人一人によって違うものであり、そこに唯一絶対の「正解」は存在しえない。アダプテーションにおける解釈と自分の解釈が食い違う時、原作の読者は違和感を覚え、「イメージが違う」などと勝手なことを言い出すものだ。アダプテーションにおける解釈も無数の解釈から選び取られた一つに過ぎないことを認識し、多様な解釈を平等な地平に置くことが必要とされる。

 けれども森山の舞台版は、原作とは異なる舞台ならではの形で作品のエンディングに多義性を導入している。「センパイと一緒に死ねない!」というセリフとほぼ同時にステージの背景に映像が投影される。それは一見、舞台下手に置かれた三脚のカメラがライブで配信している映像であるかのように見える。MAYUは動揺した様子でカメラを見つめ、もがき苦しみ、息絶える。映像に映った彼女もまったく動きをして死に至る。ところが、映像を注意深く見ると実際のステージ上の様子とはいくつか違いがある。最も目立つのはステージ上で既に閉じられている机上のノートパソコンが、映像の中では広げられ、ぼんやりと光を放っている点だ。二種類の公演ではどちらも実際には閉じられているパソコンが、映像の中では開かれていた。つまり、映像はMAYUの死の様子をライブで配信しているわけではなく、事前に録画されたものである。

 では、映像に映っているのは誰なのか? MAYUによってスマートフォンで撮影された、毒を盛られた茉理がもだえ苦しむ様子なのか? それとも、MAYUが事前に行ったであろうリハーサルの光景なのか? もしも、彼女の自殺が予行演習が行われた演技の死であるとすれば、本当にMAYUは宣言どおりに死んだのか? そして、そもそも彼女はMAYUなのか?

 一人芝居の特徴は、劇中で演じられるすべての出来事が一人の人物の主観として解釈しうる点である。小説における語り手に相当するこの人物をわれわれは慣習的に信頼することになっている。劇のラストシーンに突然挿入される出所不明の映像は、この前提に揺さぶりをかける。映像が茉理の死を録画したものであるならば、物語は茉理の亡霊による復讐譚という様相をおびるだろう。MAYUのリハーサル映像であるならば、ステージ上で壮絶に演じられる死も彼女の芝居であるかもしれない。あるいは、今まで演じられてきたことのすべてが茉理がMAYUとして配信する動画の中での演技に過ぎない可能性も打ち消せない。茉理に同化し、本来茉理が使っていたMAYUという名を乗っ取る後輩は、茉理が動画の中ででっちあげた架空の人物とも考えられる。ステージ上のMAYUなる女の素性は、全編を通して一切明かされていないのだ。

 このようなどんでん返しにも似たエンディングでの意味の転覆は、西河がNovelJam 2018秋終了後にnoteに連載した小説「光原茉理の日記」においても特徴的な手法である。書籍『センコロ』の舞台化記念版にも併録されたこの作品について、最後に検討してみることにしたい。

「光原茉理の日記」の謎

 「光原茉理の日記」(以下「日記」)は2018年12月1日から2019年1月31日の二か月間にわたってnoteに連載された。全40話。時系列順に整理はされていないものの、note上ではマガジンとしてまとめられている。

 この作品は光原茉理が非公開にしていた「ヒミツの日記」という体裁を取り、『センコロ』の中で描かれる出来事を光原の視点から語っている。日記の日付は「20XX年3月27日」にはじまり「1月31日 08:46」で終わっている。日記のエントリーの終盤の日付は西河によるnoteの公開日と意図的に近づけられている。最後のnoteは2019年1月31日の8時44分に公開されていることから、時刻に至るまで光原の日記を現実のnoteの公開とリンクさせようとする西河の意図が垣間見える。現実世界とは独立して成立している虚構の世界を描く『センコロ』本編とは異なり、このような現実との接点こそが「日記」に見られる大きな特徴である。ツイッターや東急ハンズといった実在する事物やNovelJamで執筆された他の作品への言及も、本作と現実との近接性を示している。

 「日記」を読んでまず驚くのが、『センコロ』本編では一度も出てこなかったMAYUの本名「由貴」がいきなり登場する点である。『センコロ』では茉理の動画配信から流用した偽名以外に名前が与えられないことにより、MAYUは本来の自分に関心のない、別人を演じることへの欲求の塊として特徴づけられていた。ところが「日記」では名前で言及されることによって、人格を持った登場人物としての彼女の存在が際立っている。

 「由貴」という名前は、確か『センコロ』執筆中の時点で既に決まっていたものだったと私は記憶している。NovelJam 2018秋での執筆作業中、私は西河と波野が何やら楽しげに名前を分解しているのを横目で見ていた。MAYUの「MA」と「YU」を二人の登場人物に振り分けることで、MAYUという架空の人格を二人が共有していることを示唆する狙いがあったはずだ。さらに、二人の名前の二文字目の漢字には作者自身の名前「理貴」を振り分けて用いている。これはおそらく、自分以外の何者かを演じたいという二人が共通して抱く欲求が西河自身の願望の反映でもあることを暗示しているのだろう。

 NovelJamの初日に波野の指示で西河の紹介文を書いた時、私は彼のSNSでの活発さに注目して「オンラインでの発信やコミュニケーションに抜かりがない新時代の作家」であると考えた。西河のツイートの頻度とフォロワー数の多さは、いまいちツイッターを使いこなせていない私にとって目を見張るものがあったからだ。これは、週一回程度の更新頻度ながらもチャンネル登録数や再生数といった実績を着実に残している光原茉理と作者の共通点であると言える。双方ともインターネットを駆使し、視聴者やフォロワーに向けて自己を発信することに長けている。だが、そうやってSNS上で個人が発信する自己は、他者の目を意識して演出された自己に他ならない。SNSは自分の見せたい自分を演じる演技の場なのだ。

 「日記」では「MAYUとしての活動はツイッターと動画で精一杯だ。これは光原茉理としての、ヒミツの日記」と書き出される。けれども、SNSとしての側面も強いnoteへの連載という形式を取っている点、ほぼ毎回エントリーの末尾に『センコロ』BCCKS販売ページへのリンクが掲載されている点を見る限りでは、公に向けて書かれた文章という印象が強い。特に他のNovelJam作品を紹介および論評するエントリーではアフィリエイトブログなどに見られるステルスマーケティングの手法がそのまま用いられている。「日記」の文章を読んで、光原の「ヒミツの日記」として額面どおりに受け取る読み手はたぶんいない。

 『センコロ』の広告のための文と見なして油断しながら「日記」を読み進めていった私は最後の最後に大きなショックを受けることになった。「日記」は『センコロ』とまったく違う結末を迎えるためである。

 わ、昔の日記が出てきた。しかもちょうどぴったり1年前で止まってた。こんなグーゼンってある!?
 最後の日記、由貴が出て行った日だったね。もう終わりにしよう、って言ったら、由貴はわかってたって顔でうなずいて、いそいそと荷物をまとめて出て行った。2LDKに残されたわたしはひとりぼっち、この広い家を持て余して暮らしてきたよ。

 このように「1月31日 8:46」のエントリーでは、一年後になっても茉理は生きており、由貴と別れて一人暮らしを続けてきたことが綴られる。それまではほぼ『センコロ』の内容に沿って展開してきたにもかかわらず、最後のエントリーになって大どんでん返しが待ち受けていたのだ。これは小説版『センコロ』終盤のMAYUのセリフの多義性や舞台版『センコロ』における謎めいた投影映像と同様、巨大な謎を残して読者がそれまで読んできたものの意味を転覆させてしまう力業である。「日記」は途中のどこか、あるいは最初から由貴が茉理に成り代わって書いていたものだったのか? もしくは『センコロ』とは次元の異なる並行世界の物語として企図された作品だったのか? それとも『センコロ』の物語自体がMAYUこと茉理が配信用に作った虚構だったのか? ――こういった調子で読者を戸惑わせることにこそ、作者のたくらみがあるに違いない。

 長々と書いてきたが、言いたいことはシンプルだ。『センコロ』は面白い。そして波野發作の手から、一万円をもぎとりたい

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趣味で短い小説を書いています。NovelJam 2018秋 藤井太洋賞受賞。noteは気が向いたときに思いつきを書こうと思います。内容には期待しないでください。
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