作品を読み解く意味(小川公代『翔ぶ女たち』書評)
現代の批評はフェミニズムが強く前面に押し出されている。その前はポストモダン批評が流行ったわけだが、それもネットの隆盛ととともに――皮肉なことに――後景へと移っていった。家父長制、LGBTQ+、男女雇用機会均等などはもちろん、現在では夫婦別姓の問題など。「理論的」というよりも「実際的」な問題が眼前にあり、それに応えることの出来る言葉だったのだろう。過去の言説の積み重ねとともに、実質的な言葉を投げかける論客(彼女たちはそのように呼ばれるのを嫌うかもしれない)が次々と現れてきている。近年では北村紗衣、水上文などといった書き手の存在。そしてその中の一人に小川公代がいる。
小川氏は『ケアの倫理とエンパワメント』(二〇二一年)から、『ケアする惑星』(二〇二三年)、『世界文学をケアで読み解く』(二〇二三年)という「ケア三部作」、そして『ゴシックと身体』(二〇二四年)と近年、次々と著作を出している。そして最近また新しく『翔ぶ女たち』(二〇二四年)を出版した。
ケア三部作の続編にあたる本作は、野上弥生子という女性についての論を軸にしているが、それ以外にも現代のドラマや映画、アニメを扱っている。具体的には『虎に翼』、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(=『エブエブ』)、『機動戦士ガンダム 水星の魔女』、『君たちはどう生きるか』といった作品だ。しかし、それを扱う際に持ち出すのは、氏が持っている持ち前の「ケア論」やフェミニズム批評、また英米文学の知などを縫合して論じていく。
それぞれで一貫しているのは「女性」の自由についてだ。しかし、それは単純な自由ではない。ケアを起点とした超越的な存在ではないものとしての自由である。キーワードは「葛藤」としての存在だ。
『ケアの倫理とエンパワメント』では、基本的にジョン・ロールズが主張する「正義の倫理」とキャロル・ギリガンが主張している「ケアの倫理」の対比構造をもとに、後者を重要視して文学作品を批評する。
なぜ今、ケアなのか。ケアのイメージはおそらく介護などのイメージが強いかもしれない。しかしそれだけではなく、もっと身近なものとして、ともに相互扶助を行うこともケアに当たる。そうであるとすれば、家庭はもちろん、仕事や学校などといった社会領域全般に「ケア」の概念は存在しているだろう。
そして我々の社会はどちらかといえば、「ケア」よりも「自己責任」の強い社会である。健全ではない過当な競争を強いられ、能力(=スキル)が重要視される新自由主義的な社会。そうなると、自分のことばかりになってしまい、周囲への配慮が疎かになる可能性がある。そんな殺伐としたことを強要してしまうような状況が現在の日本には存在してる。だからこそ、「ケア」という概念はそんな社会への抵抗となり得るものだと言える。
本書はそんなケア三部作の延長線上にある本だ。生きづらい女性たちの声を文学作品を通し、「翔ぶ」(=ジャンプ・飛ぶ)というキーワードで読み解くものとなっている。
基本的に「女性の自由」と聞くと、「強い女性像」をイメージするだろう。なんでもこなせるスーパーウーマン。バリバリに働いてキャリアを形成する女性。それこそが自立した女性像として一つのモデルとしてあるのは確かだろう。本書ではこれをアルファ・タイプと呼ぶ。新自由主義社会が持つスキル(能力)重視の社会で活躍できるのがこのタイプだ。
しかし、誰しもがそのような存在になれるはずがない。そんな存在は自他ともに疲れてしまうだろう。
『翔ぶ女たち』ではそのようなケアを行うような存在をベータ・タイプと述べる。このタイプは一見華やかさはないが、ケアをはじめとして周囲のことを様々に考えて行動していく種類の人間だ。
本書はそんなベータ・タイプの存在に焦点をあてる。彼女たちはスキルを駆使したり、男性と同じようなステージで戦ったりするのではない。悩みながら進み、周囲のことへの想像を巡らせて立ち止まる。そのような姿がこのタイプにあたる。
そのような存在の逡巡や葛藤などは、必ず僕たちも行うものである。僕たちはどこかで悩みがなく、真っすぐに進んでいくリーダーに強さを見てしまうきらいがある。しかしそのような存在はどこかで何かを見落としている可能性がある。先の「正義の倫理」と「ケアの倫理」の対比もこれを考えれば納得できる。正義によって切り捨てられる他者の存在を省みないロジックは取りこぼしをしてしまうのだ。もちろん、政治や経済的決定などは必ず決断を強いられる。その際には何かしらの取りこぼしがあるのは間違いないだろう。だが僕たちの人生は何も決断だけではない。切り捨てられない様々なことを考えることが人間社会にはあることをもっと意識するべきだろう。
それにしても、『翔ぶ女たち』は真っ当な文芸評論だ。最近はここまでちゃんとした文芸評論を数作もまとめて出している人はあまり見ないかもしれない。そもそも文学を読み解くなどどういうことか、別段そのようなものがなくても、自分たちで勝手に読み、勝手に楽しめばいいではないか。SNS全盛時代において、自分たちの感想を手軽に発信できる現代では、そんな声が聞こえてきそうだ。しかし文学を語ることには意味がある。
例えば、「女性」という地位が家父長制において今まで抑圧されてきたということであるならば、ある側面で言えば、そんな「女性」たちは発見されていなかったと言い換えられる。そんな中で見過ごされている存在を再焦点化するためには意識化させる必要がある。人間の意識と密接に結びつているのが言葉である。僕たちは言葉によって意識を形成していく。そしてそんな言語を通した構築物が文学作品である。もちろん、この「文学」という枠組みは小説だけではない。ドラマやアニメといったフィクションもその枠組み入る。
そしてそんな作品を読み解き、言語化することは見えなかった視点を提供するのである。もともと未知=見えなかったものを、作品とそれを語る言葉によって既知=見えるものとして扱い発見させる。まさにこれは文芸評論が行うべき役割である。家父長制において見えなかった「女性」を発見すること。文学作品とともに、その視点を持たせることができるのが文芸評論だ。
文学の読み解きは視点の発見だ。そして小川が述べるエンパワメントとはそのような視点を得ることに他ならない。そしてこの視点を獲得した時、ここで挙げられた以外の作品を見る眼も変わってくる。僕たちはかつてのように作品を見ることはできない。これが文学と文芸評論が行っていることである。
※ele-king出版から出される『別冊ele-king 日本の大衆文化はなぜ「終末」を描くのか――漫画、アニメ、音楽に観る「世界の終わり」』にて小川公代さんへのインタビュー・構成に参加しました。このインタビューでも小川さん自身がご自身の研究領域の視点からアニメや漫画などのサブカルチャー作品を読み解いたお話をされています。今までの「ケア」の理論とも絡み、非常にまとまった内容になっていますので、ぜひご覧になってください。