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ボーッと生きずに、戦争反対を叫ぼう 孫を殺されないために

今年は6回目の年男だ。2月26日、ニーニーロクが誕生日である。日本の歴史が戦争へ向けて暗転した日である。いま「新しい戦前」といわれる。再び暗黒の歴史を繰り返さぬよう、平和の恩恵を享受してきた私たちの世代は頑張らねばならぬ。「永遠の戦後」にするために。

日本はどうなったのかという論が最近多い。少し前までは落ちぶれつつあるとはいえ、すごい国という論だったが、給料は上がらぬ、物価は高い、政治家は堕落している、企業も金儲けだけを考えている、などなど、大丈夫かニッポンという論が多い。そこまで危機が深刻になったのか。

でも街を歩けば、みんなきれいな服を着て、飢えることもなく、楽しそうに歩いている。なにか不安はあるけど、まあ、いまは暮らせているからこれでいいかという感じなのだろうか。ゆでガエルに例える人もいる。カエルの水槽をゆっくり熱していけば、沸騰してもカエルは分からぬまま死んでいくというのだ。日本人がそうならないことを祈る。

わたしは退職してから、政治を変えたり、核兵器廃絶をめざしたりする市民運動に多くかかわっている。同年代の人たちが多いいが、若い人は少ない。デモをすると老人会の行進のように見える。これではあかん、もっと若者を集めようと以前は思っていたが、今は同年代を誘いたいと思う。

先日、ショッピングセンターのフードコートで500円ほどの弁当を買って食べた。目の前に同年代とおぼしき男性が2人いた。ひとりは読書している。もうひとりはスマホで映画でも見ているようだ。暇を持て余しているように見える。私の感じ方だから間違っているかもしれないが、家にいてもすることがない、居場所がない。かといって金のかかる遊びをする余裕はない。ショッピングセンターをうろつき、夕方になるのを待つ。背中から、そんな雰囲気を感じるのだ。

その足で近くの図書館に行った。ここは老人でいっぱいだ。新聞を読んだり、雑誌を見たりして暇をつぶしている。お金のかからない時間の過ごし方であり、パチンコで大金をなくするより、よいかもしれない。ただ、2人座れる楽な椅子を1人で長い時間占拠するのはやめてほしい。荷物を置いて場所取りしている輩もいる。

世界一といわれる長寿国で、何もすることがない老人が多すぎるのではないか。もちろん生活のために働いている老人もたくさんいるだろうが、ボーッと生きている人たちが多すぎる。

若いころを思い出そう。私の学生時代は70年安保だった。学生運動はもうへたっていたが、それでも学生デモが繰り出していた。わたしたちより10年前の世代は60年安保だ。国会を何十万もの労働者、学生が取り囲むなかで、岸信介首相が、日米安保条約を強行可決した。いまは、ボーッと時間をつぶしている老人たちよ、あの情熱を忘れたのか。いまこそ情熱が必要ではないのか。

世界中で戦争が起きている。ウクライナは停戦の気配が見えずにドロ沼化している。ガザでは病院や学校にミサイルが撃ち込まれ、子どもたちが血を流して泣き叫んでいる。なんとかしないと、日本も戦争に巻き込まれると思っている人たちは多い。でも、若者たちは今を生きるのが精いっぱいのようだ。労働組合の力も弱くなり、かつての安保闘争のように大デモを組織することもなくなった。では、私たち老人が立ち上がるしかないではないか。

私たちの要求は、孫を戦争で殺すなである。ボーッと生きていたら、孫が徴兵されて武器を持たせられて、人を殺し、殺される。わたしたちの親世代は現実に体験したことだ。まだ80年もたっていない。そんな世の中には絶対にしたくない。孫に人殺しをさせたくない、孫を殺されたくない。この思いで一致団結がんばろーではありませんか。

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