「体験」する価値~その2
みなさん、おはようございます。フジガッキーです!
さて、『小売の未来』(ダグ・スティーブンス著)から
さっそく昨日の続きとなります。昨日は、
実生活で何かを体験する際、手間・コスト・時間をかけるからこそ、価値に対する期待度も高まる。
というお話しでした。
で、最後思わせぶりに、さらにもっと示唆に富んだ話しがあると。
ということで、体験する際の手間や費用について、
「では、それだけの時間や手間、費用をかける価値があったのか」
まるで風船を膨らませるだけ膨らませておいて、一気に奈落へと突き落とす感じに文章は続いていました。
小売業者は、ごくわずかなケースを除き、消費者に貴重な時間を割いてまで足を運んでもらうほどの価値のあるショッピング機会など生み出していない
と喝破します。でもここで疑問が生じます。
小売業者が、われわれ消費者にあの店で買いたいと思わせる価値提供ができていない状態で、なぜいままで存続が出来てきたのかと。
みなさんは、なぜだと思われますか?
「消費者に選択肢がなかったからだ」
なるほど!
工業化時代の小売なら、それでも乗り切ることができた。でも、そんな時代は過ぎ去った。独自の明確な価値を持つ店に、買い物客は時間と費用をかけるようになる、と。
この結論に至る、伏線的な書きぶりがあります。
この章の始めに、著者が奥様とドライブしている最中に、新しく建設中の学校に目が留まったというくだりです。
ちらっと見ただけで、なぜ工事中の建物が骨組みをちらっと見ただけで、公立小学校だと割と確信をもって判断できたのか。
現在の公教育は、産業革命の産物だったのだ。
教育機関は「工場学校」と呼ばれる。その目的は、深い思考や独創的な発想を育むものではなかった。工場で問題を起こさずに、従順にテキパキと働くための知識やスキルを授け、行動矯正を受けた人間を現場に送り出すことに特化した制度だった。
今日の公立学校の多くが工場の建物に似ているのは、偶然ではない。優れた発想を触発する場ではなく、むしろ学習過程という組み立てラインに十分な数の学生を投入する装置として造られているからだ。
そして、工業化時代の産物は学校だけでなく、小売にも工業化社会の様相が色濃く残されてきたと。店舗の立地、デザイン、業態、営業時間はもちろん、収益モデルさえも産業基盤に組み込まれてきた。
それがデジタル時代に崩れ去ろうとしているまさにいま、生き残るブランドは、従来のマーケティング手法や販売戦術を抜本的に見直し、これまでとは違う新たな消費行動パターンに適用するはずだと、最後はエールで締めていました。
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いかがだったでしょうか。
「選択肢なし」と「工業化社会」に、小売業界もある意味ではこれまで救われてきた感があったのだと思います。
でもまったなし!
新しい時代を生き残るリテールタイプとは?
いよいよ核心の章、ワクワクしながら読み進めていきたいと思います。