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essay #11 渡欧

初めてのヨーロッパ旅行で、シェフをしているいとこの兄に再会した。

まだ私が幼かった当時、祖母が生きていた頃は、実家には親族の行き来がそれなりにあった。

親族の中で一番歳下だった私の記憶は曖昧だけれど、毎年夏休みになると10歳ほど上のいとこの兄が2人で、あるいは叔父と一緒に遊びに来ていた。
既に叔母である母の姉と叔父とは離婚していたけれど、新たに叔母となった後妻も良くしてくれたし、子どもだった私たち姉妹は、よく兄たちに肩車をしてもらったり、手を繋いで飲食店まで歩いてもらったり、なんとなく仲良くしていた記憶がある。

背が高くて、すらっとした2人の兄は、両方ともシャイな方だったけれどとても格好よく見えていて、年に1-2回でも、会えるのがとても嬉しい憧れの存在だった。

上の兄が料理の道を目指すことになり、埼玉の家から専門学校までは遠いからと、私たちの実家の斜向かいにある老夫婦の家に下宿していた時期があり、上の兄のほうが下の兄よりも少しばかり親交が深かった。

(今思えば、その1年、何度も晩ご飯をうちで食べていたし、下宿先は風呂無しの物件だったので風呂も毎日うちで入っていたはずなのに、なんでDVがバレなかったんだろうか。学校でも、習い事でも、通っていた教会でも、高校まで外部にバレたことはなかった。大人って、家族って、不思議だ。)

さて、そんな上の兄に会いたかったのは、10年前に彼がくれたメールがきっかけ。

一番苦しかった、死ねなかった高校3年の受験期を越えてなんとか進路が決まり、ほぼ勘当される形で一人暮らしをし始める頃、母から「お世話になったのだから大学合格を報告しなさい」と言われ渋々メールを打ったことがある。

私たちが中学生の頃を最後に兄たちも自立し、ほとんど交流がなくなっていたのだけど、母は家族の状況をいとこ家族へ相談していたらしかった。
私については母の視点から相当、親不孝な娘として伝えられていたようで、その立場から挨拶的なものをしないといけないのは苦しくて、もうなんて送ったかも覚えていない。

とにかく、そんなこんなでメールをしたら、叔父と下の兄からも返信があって、それぞれにお祝いの言葉をもらったのだけれど、上の兄だけが
「あなたは僕からすると普通だと思うよ、新生活もがんばってね」
というような返信をくれたのだ。


言うことを聞かないと蹴られ、事あるごとに離婚した父と似ていると罵られ、死なれたら死なれたで面倒だから、消えてなくなれと言われて育った。

母に怒られないよう先回りして対策をし、味方になることはなかった姉と、母に逆らえない祖母の間で、常に家族の恥であり、異常なのだと言い聞かされてきた。

今はまーじでそんなことないとよーくわかるけど、当時の私にとっては母が法律であり、審判者であり、もっとも正しい人だった。


そんな時、かろやかに「家族の中であなたのほうが正常だよ」と言われたのは変な感じで、とても信じられない、と思ったのをよく覚えている。


いとこたちの母である私の母の姉も問題を抱えていて、そこから自立するために、上の兄は高校時代からずっと働いてお金を貯め、いち早くヨーロッパへ旅立った。
様々な人と出会い、苦しい思いもしながら料理人として腕を磨き、外国での生活を成り立たせてきた彼が、私たち家族を一歩離れた立場で俯瞰したとき、おそらく私はごく普通の、親に反発しながら自分の人生を探す思春期の女子に見えたのだろう。そしてそれは、彼自身の人生の歩き方と少し似ていたのかもしれない。

親と意見が合わないのなんて珍しくないよ、
むしろずっと従順なほうが心配だよ。

そう言った彼の言葉は、すぐには受け入れられなかったけれど、年を追うごとに私の身体にじんわりと染み込んで、今となっては、ああ、そうかもしれないと馴染んできた感じがする。

ずっと自分だけが間違っていると思っていたけれど、きっとそんなことはない。
そう思わせてくれたきっかけを兄がくれたので、自分を取り戻し始めた23歳ごろから、機会があれば会いに行って、報告しようと思っていた。
私、おかげで元気だよって言いたかったのだ。

10年以上ぶりとは思えないほど、たった2回の食事でいろんな話をしたけれど、ちゃんとこの喜びや感慨深さが伝わっただろうか。


次会う時は日本かな、2回目のヨーロッパのほうが先かな、なんて笑いながら、ああ、笑い方がずっと変わらないな、でも思ったより、この人は背が高くなかったんだな、と気づいた。

私には30代が、兄には40代が近づいている。

尊敬する気持ちは変わらないけれど、肩を並べて歩けるようになったなら、ちょっとは追いつけたのかもしれない。

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