シングルファーザーの平凡な一日
大学時代、講義の課題で書いた掌編です。
私はシングル家庭ではありませんが、先生に
「なんでこんなにシングルファーザーの気持ちがわかるの?」
と真顔で聞かれました笑。どうしてかな。
「日常の狂気」ってありますよね。
生きている中で、誰しも一度は人を殺そうと思うことがあるのではないか、と考えています。
ただ、その欲求をコントロールするから人間は人間なのです。
暗いものも明るいものも全部噛み砕いて飲み込んで血肉にして、人は人として熟していく。
ムダなものなどなく、思ってはいけないことなんかなく、すべてあわせ持つから人間は人間。
色んな経験をした人ってすごく魅力的だと思います。
自分自身もそんな深みを持つ人間でありたいです。
それにしても、父の日を前になんて話をお届けするのでしょう。
読み返して、こういう思いを持ちながらそれでも育て上げてもらったと思うと、素直に「ありがとう」という気持ちがじんわり滲んできます。
今年はクラフトビールセットを贈る予定です。
私は迷っている。
今日の弁当に、子どもの大嫌いなブロッコリーを入れるべきかどうか、迷っている。
昨日も同じように子どもの嫌いなにんじんを入れて、結局それだけきれいに残されて弁当箱は返ってきた。子どもの、パパどうしてにんじんなんか入れたの、という文句つきだった。
私は迷った挙句、茹でた小さなブロッコリーのかけらをひとつだけピンク色の弁当箱の隅に置きフタを閉めた。代わりに、自分のもっとずっと大きな弁当箱の中に、余ったブロッコリーを詰め込む。黒い箱の一角に、ブロッコリーの森のミニチュアができた。
子どもはテーブルにつき、夢中で目玉焼きに食いついている。
私ははっとしてテーブルに駆け寄った。卵の黄身が、子どもの幼稚園の制服にべったりとついてしまっていた。夏服になったばかりの白いシャツに、それはくっきりと描かれた黄色い地図のようだった。近くで見ると、この間先生に褒められたと言って持って帰ってきた、白い画用紙に子どもが描いたきりんの絵にも似ていた。
私はすぐにぐずる子どもをなだめすかして着替えさせた。替えのシャツにはまだアイロンをかけていなかったから、慌ててアイロンをかけた。シャツのボタンを留めてやっていると、子どもが暑いと言ってまたぐずった。
時計を見ると、もうとっくに出かけなければならない時間を過ぎていた。
私は迷った。
まだ子どもの髪を結っていない。今日は櫛だけ通して、このまま幼稚園に行かせるべきだろうか。
そう言うと、ただでさえ機嫌の良くなかった子どもが怒って泣き出した。
どうしてもいつものように三つ編みにしていくのだと言って聞かなかった。
私は子どもの泣き顔をじっと凝視した。
ふと時間がないことを思い出して、急いで子どもの髪を結った。幼稚園にも会社にも時間通りに間に合わないが、仕方がない。今朝は私が寝坊をしたのも悪かった。
自転車の前にいつものように子どもを座らせて、ペダルを漕ぐ。
汗だくで子どもを幼稚園に送り届けると、若い女の先生への挨拶もそこそこに、私は会社へと向かった。
上司にこってりと絞られ、埋め合わせに大量の書類の整理を命じられた。作ってきた弁当のかいもなく、昼休みも返上して作業していたが、合間を見て一服するためにそっと席を立った。
喫煙スペースへ行くと、金魚鉢のようなガラスケースの中で、何人かの似たような風貌のサラリーマン達が煙を燻らせていた。そこへ自分も入っていき、様々なタバコの匂いを胸いっぱいに吸い込む。すると、頭の中にあるごたごたがすぅっと遠のいていくような気がする。
私は落ち着いて自分のタバコを一本取り出すと、次にライターのために上着のポケットを探った。
はい、と横から顔見知りの後輩が火を差し出してくる。礼を言ってその火にタバコを近づけた。
長く煙を吐き出す。煙は解き放たれてせいせいしたように天井の排気口に吸い込まれていく。そのまま外に出ていき、空高く昇ってこの世の空気を好き勝手に汚すのだろう。
先輩がタバコを吸うなんて知りませんでした、と火をくれた後輩が私の様子を見て笑った。うまそうに吸いますね。禁煙でもしてたんですか。
立ち昇る煙の中に、ぼんやりといびつに子どもの笑い顔が浮かんだ。
その顔をじっと見つめると、私は黙ってまだ吸い始めたばかりのタバコを灰皿に押しつけ、もみ消した。
やっと仕事を終わらせて、電車で最寄りの駅に戻ってくると、駐輪場にあるはずの私の自転車がなくなっていた。
私は迷った。
警察に届け出るべきだろうか。しかし、そうすると子どもの迎えの時間がますます遅れてしまう。盗まれた自転車が手元に戻ってくる確率など、宝くじを当てるようなものだ。だが、自転車がなければ明日からの通園、通勤はどうすればいい。
やがて私は仕方なく自転車を諦め、徒歩で子どもを迎えに行くことにした。
もう時間はいつもよりだいぶ遅い。私は早足で幼稚園へと急いだ。
幼稚園にたどり着くと、すでにほかの園児達は誰も残っていなかった。
ひとりぽつんと積み木遊びをしていた子どもは、迎えに来るのが遅いといってすっかり拗ねてしまっていた。
もうパパとは口も聞きたくない。パパのバカ。パパなんか死んじゃえ。
ひととおり泣き喚くと、疲れたのか、子どもは私の腕の中でぐっすりと寝入ってしまった。ぐったりした子どもを抱き直して、すっかり日の暮れた家までの道のり、ところどころ街灯に照らされた暗い影をゆっくりとたどっていく。耳元に子どもの寝息が規則正しく感じられる。
ようやく小さなアパートのドアの前に立ち、子どもをなるべく揺り動かさないようにしながら、鞄の中の鍵を手で探る。一、二分ほど格闘して、やっと冷たく硬い感触に行き当たる。
がちゃり、と鍵を回して子どもと私の匂いが染みついた部屋へと帰宅した。
肩で玄関の電気をつけて、子どもを抱いたまま靴を無造作に脱ぐ。そのまま寝室へ行くと、畳んであったふとんを適当にならして子どもをそこへそっと寝かせた。
私は薄暗い部屋の中でネクタイを緩めながら長く息を吐いた。
子どもは安らかに眠っている。
私はじっとそのもろい、やわらかな、人形のような白いくびを見つめた。
ゆっくりと子どものそれに手を伸ばす。私の片手だけで楽に一周できてしまうほど細いくびを、両手でじんわりと包み込んだ。
ほんの少し。もう少しだけ強く力を込めるだけ。それだけで、子どもは声もなく、二度とその小さな胸を膨らませることがなくなる。か細い十本の指が、すっかり頼りきった様子で私のこの手を握り締めることもなくなる。
ほんの少しの力で。
私は自由になれる。
私は緩慢な動きで立ち上がると、寝室の襖を静かに閉めた。
私は迷っている。
明日の子どもの弁当のおかずに何を入れたらいいだろう。
私はまた、迷っている。