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いとしい銀色の魚へ②

 昼間の水槽は明るい。窓から注ぐ陽光は、この四角い部屋の何もかもをまぶしく照らし出す。
 わたしはふっとわずかに意識を戻したけれど、そのまま明るさを避けて、すぐに腕の中の暗がりへ引き返す。
 水面に体が浮き沈みするように体が揺れる。まぶたを薄く開くと、大きくしなやかな手がわたしの肩に広がっていた。おぼろげなその輪郭を眺めていると、再び体を揺さぶられる。わたしはマリオネットが繰り糸を振り回されるようにぐらぐらとして、ようやく目を見開いた。真っ先に大きな手の向こう、涼しげな瞳に焦点があった。
 わたしは水槽の中へ引き戻される。
 長くその人と見合ってから、ぼんやりと瞬いた。
「英輔」
 水紋のように忍び笑いが広がった。
「起きたかあ。深田」
 わたしは気まずく身を起こした。
 整然と並ぶいくつもの机。こっちを見つめているたくさんの顔。離れていても目につく魚眼が、座席表で扇ぐひときわ大きなにやにや笑いをわたしに向けている。
 肩にあった手が引いていく。わたしは身を固くして、みっともなく赤らんでいく顔を伏せ、目を泳がせた。
「けしからんなあ。新学期も初日に居眠りを決めこんでいるとは。先生、赴任してきたばかりでみんなとは初対面だから、けっこう緊張して話をしていたんだがなあ」
 魚眼男は大げさにがっかりしてみせた。
「まさかいきなり寝顔に向かってよろしくと言う羽目になるとは思わなかった。今ちょうど自己紹介をしていたところなんだが、深田。先生の名前は何だったかな」
 間が空いた。
 わたしは声を絞った。
「ん?」
 魚眼が困ったように眉を下げる。
 もう一度答える。
「なんだ?」
さらにもう一度聞き返されて、わたしはやっと小さな声を届けることができた。
「すみません。わかりません」
 さあっと、またわたしを中心にして笑いが広がる。
 おかしなことを言っただろうか。
 息が詰まり、頬が燃える。冷たい汗がにじむ。
「ウン。そうだろう。じゃあ、隣の佐野クン。彼女に教えてあげなさい」
 また間が空いた。
 わたしを揺り起こした人間は大きな口を歪ませて、期待に応えるように言った。
「わかりません。夢中で、聞いていませんでした」
 わたしひとりに向けられたものとは違う種類の笑い声が空気を乱した。魚たちがわっとエサに群がるような感触。
「そうだろう、そうだろう」
 表情豊かに魚眼がうなずいた。いいか、もう一度書くぞとおどけた口調で言って、「滝田英明」と黒板に白いチョークで、でかでかと書く。
「先生はな、そういったことには理解がある方だからな。いつでも相談に来なさい。そして、その時のためにぜひ、名前を覚えておくといい。よろしいかな、お二人さん」
 魚眼は野太い声で言って、からかうように笑いかけた。
 たくさんの顔がにやにやと横目でわたしたちを見つめている。どの目も白目の部分が妙に生々しい。ふと生臭さが鼻先をかすめた気がした。たくさんの魚が目を剥いて私を見ている。背筋を冷たいヘビが這い下りていくようだった。
 わたしはいつの間にか立ち上がっていた。
 ざわつく声が水の中にいるように耳に響いて、動きはスローモーションのように鈍くなる。
 わたしは手で口を被った。なぎ倒すように机の間を通っていく。教室の扉をガラリと引いて大きく息を吸おうとして、ぐっと体を折り曲げる。
 息が出来ない。気持ちが悪い。
 背中に声が迫っていた。口をしっかりと押さえながら、わたしは廊下を駆け出した。
 過ぎていくどの水槽にもたくさんの魚たちが泳いでいる。ちらりとわたしに目を遣ることもあるが、すぐに退屈そうに視線を戻す。教壇に立つ教師たちは、声を張りながら、あるいは伏せ目勝ちに、笑顔で、無表情で、同じようなことを話している。すべての水槽の中では同じことが起こる。同じようなヒトたちがいる。同じことが繰り返されている。
 トイレに駆け込むなり、わたしは個室に入って戻しはじめた。
こみ上げてくる気持ちの悪さをひたすら身体の外へ追い出す。顔は真っ赤に歪んでいる。頭がぼうっと気だるくなってくる。少し楽になると、抱え込んでいた便器から顔を上げて必死に呼吸する。やがて不快感がこみ上げてきて顔を下げる。そして溺れているように天井を仰いで、情けない顔でまた息をする。
 ぶざまで滑稽な姿だ。でもわたしにはどうしようもない。
 ふいに近くで足音がした。はっとしたときには、閉め忘れた個室の扉が音もなく開いていた。
「ああ。ひどいね」
 涼しい眼差しが私を見下ろしていた。
 わたしは口を開いて、言葉の代わりに腹の中のものを吐き出した。それからぱくぱくと空気を呑む。
 英輔は嫌な顔もせず、むしろ微笑を浮かべて、じっとわたしを見つめている。
 これ以上胃からは何も出てこない。そう思っても不快感が引かない。息がうまくできない。
 ぐったりと座り込んだ。
「英輔」
 わたしは自分のかすれた声を聞いた。横でへらへらしている人間に訴えた。
「背中をさすって」
 英輔ははじめ微動だにしなかったけれど、ゆっくりとしゃがんで大きな手をわたしの背に当てた。その手が心地よく冷たい。
 わたしはいつの間にかスカートの右ポケットに手を入れていた。ぼんやりと中のものを弄んでいた。
 英輔が背中に当てているのとは逆の手で、わたしのポケットに入れた手首をきつく握る。それから何気なく背中をさすり出す。
 わたしはやっと息をついた。水を肩からかけられているようだ。胸のつかえが流れていく。同時に、力が抜ける。水のどこか深いところに、わたしはどこまでも沈んでいく。
「クラスのヒトたちは、みんな驚いていたよ」
 英輔は静かに言った。
 まだどの教室でも授業をしている時間だ。廊下には人気がない。水槽から聞こえてくる声はどこか遠くで響いている。わたしは今、それらから隔てられたところにいる。目を閉じて考える。ここは水槽ではない。もっと深みのある水の中だ。英輔の声と自分の呼吸音だけを、近くに感じていた。呼吸がゆったりとしたテンポに移っていく。
「あの先生も、出目を見張ってびっくりしていた」
 彼はクックッと喉を鳴らし笑う。
 急につかまれていた右手首を引っ張られた。ポケットから手が抜ける。
 わたしは目を開いて、ぼんやりと英輔の顔を見上げた。もう何も持っていられないほど、右手が痺れていた。
「さあ。戻ろう」
 彼はさらに強くわたしの手を引く。


つづく

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