エッセイ㉑「花を贈る」

自分で思いますが、「面倒臭い人だな」笑

でも今でも本当に思うんですね。
「花を贈る」ってどういう心情なのだろう、と。

これを綴ってからしばらく経ち、家に仏壇というものができて、私も日常的に供えるお花を買うようになりました。

今の悩みの種は、仏花をどのくらい長持ちさせられるか。
洋花はあまり保たなくて困っております。
以前供えたひまわりの、かくんと落ち込んでいくスピードのなんて早く、悲しいこと。

和花として売られている菊の親戚たちは緑も濃く、けっこう長持ちしてたくましいです。見ていて安心します。

お花のプレゼント。お花かあ。



 花を贈るというのは、どんな感じだろう。
 また受け取る側は、何を感じるのだろうか。
 世の中の一般的な家庭がどうかはぜんぜんわからないのだけども、我が一族ではわたしが幼いころから花を贈るやりとりが多かった。
 物のプレゼントよりも多いかもしれない。先日も、父の誕生日に父の母、つまりわたしの祖母から小さいサイズの胡蝶蘭が贈られてきていた。
 花の贈り物は実用的ではない。長くもつものでもないし、贈られる側が水に活けるという労力がかかったりする。

 例えば母の日でも、わたしが自分で贈るのはカーネーションではなく、決まってハンカチとかチョコレート菓子とか、使えたり食べたりできるものだった。
 幼いころから疑問だった。
 なぜ人は花を贈るのだろう。手入れが必要で、長くはもたず、下手をするといやな虫を招き寄せるとかするものを、どうして贈り物に選んでしまうのだろう。

 野にある花くらいはわたしも愛でる。たくましく、きりりとして生命力に溢れているから、安心して見ていられる。
 だが贈られる切り花ときたら。何度も水を変える必要があり、栄養剤を用いれば少しは長持ちするものの、運命は萎れていくばかり。そこから何を産むわけでもなく、もらった時点が最も美しい。なんて悲しいのだろう。その儚さがいいのだろうか。
 やがてはゴミとして捨てられてしまうのだ。その捨てる時のやるせなさを思うと、自分は花を贈る選択はできない。同じ理由から、贈られる側になるのもいやだ。

 花屋はあってもいい。ただしわたしの楽しみ方は散歩で店先を通り過ぎる時、あらゆる色が滴るように咲き誇っている、その瑞々しさを吸い込むのみだ。
 いつも歩く道に一軒でもあれば、雨でも道は明るい。花屋は存在しているだけで価値のあるお店だと思う。

 しかし年頃になって、想像してみることもある。
 一輪の真っ赤なばらを花屋で選び出した男が、共にする食事の前にわたしにそれを贈ってくれるとしたら。
 ……やっぱりだめだ。
 食事の前に贈られたら、この繊細な花をその日男性とお別れするまでにどう扱えばいいかとか、家に着いたらすぐ水につけなければ枯れてしまうから、花瓶になるような器はあったかとか、その花が枯れるころにはその贈り主の男性とはどうなっているのだろうかとか、それは暗示のようにひと時限りの関係性となってしまうのではないだろうかとか、あらゆる想像がせわしなく巡って、もらう機会を得る前から気疲れしてしまう。

 このように、贈られるような美しい花は豊富な想像のきっかけを人に与えてくれる。
 わたしは花言葉なんかが気になる性質でもあるのだ。きっと自分は気軽に贈られる花一輪に対して深読みしすぎる。
 やはり、贈られるならばチョコレート菓子がいい。
 まあ、こうして贈り物について考える空想そのものも楽しいものだ。何を贈り、贈られるか。受け取った相手はそれをどのように感じるだろう?
 「贈り物」という言葉には多彩なエピソードがつきまとうものだ。

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