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長い喪失の時期を過ごしている。

かれこれ何か月noteを書いていないんだろう?

元々、内省したことを文字にするのは、私にとってはほぼ呼吸していると同じようなものだったので(10代の頃からとにかく何かしら書き"出し"て生きてきた)、これだけ何も書かずにいるというのは珍しく、そして一番色々書き連ねていたFacebookがかなり更新頻度がさがっているのも、同様に珍しい。

ご心配なく、私は元気です!(←「不滅の棘」のエロール風)

元気ではある。仕事はゴリゴリと新しいことにチャレンジしているし、家族とも楽しい時間を過ごしているし、観劇やサウナも感染対策しながら行っている。

でも、文章を書き起こすだけのエネルギーは、沸いてきていなかった。なぜだろう?と考える。

毎日少しずつ、希望を喪失し続けている

前提として、今ご支援させていただいている方が、喪の作業に直面しておられることで、私の中で、普段以上に「喪失」「悲嘆」についてのアンテナが立っている、というのはある。

ただ、2020年の3月に、緊急事態宣言が出た時に、心理や対人援助業界の人は思ったんじゃないだろうか。これは、深い喪失と、トラウマの時代がくると。で、その通りになっているし、何より自分自身が、喪失の痛みを意識しては、乗り越え、また痛みに覆いかぶせられて、そこから何とか出る、みたいなことを繰り返しているのだ。

今日、難しいカウンセリングを終えた、帰りの電車の中で、どうしてもわけもなく、涙が込み上げてきてしまった。何かが、私の防波堤のようなものを超えたのだと思う。ものすごく忙しく、心身ともに余裕のない日々だったというのもあるのだが、咀嚼できなかった何かが一気にあふれ出してきた感じだった。

コロナ禍でわかったこと。
人と関わる、交わる。そこに、いつか別れてしまう悲しさ辛さがあったとしても、私はやっぱりつながりを持ちたい。どこからもスタンドアローンでは、今のところ、私は生きていけない。外界よりも自分の価値観や感覚に重きを置きがちな人間ではあるが、自分の世界だけでは嫌だ。誰彼構わず、ではなく、大切な人に会える、あるいは、大切な人たちになるかもしれない人と出会える、そういう希望を持って日々を過ごしていきたい。うっかりした出会い、にいつも身を投じていたいんだ。

その希望を、新しい生活様式、感染対策、という名のもとに、追いやられてしまうことに、どうしても、事象以上に、「大切なものを軽んじられている」ような気がする。ただ誰かに会いたい、ご飯食べたい飲みたい触れ合いたい、そういうことではなく、人と関わりながら生きていくことの根源みたいなところ、ぐるぐる考えてもやっぱりそこに「必要だよね」と辿り着いているところ、そこを「リスク」という名のもとに一掃されてしまうこと、その、「希望や可能性を喪失し続けている」ことに、疲れてしまっているんだと思う。

対面で逢いたい人、関わりたい人がいる。でも、その人たちに会うことは許されない。誰かが許さない、社会が許さない、もちろん、その人自身の配慮によって、許されない。それ自体は、どうしようもないし、私自身も配慮して生活している。ただ、誰かにそうされること、そのことを、「私のことは軽んじていただいて大丈夫です」というメッセージかの如くに感じてしまう。あくまでもこちらの感じ方の問題なのはわかっている、が、私は、「あなたが大切だ、と、命のあるうちに、直接伝えたい」という気持ちが非常に強いので、その機会が失われていくことが辛い。

まだ会えていない、これから大切な存在になっていく人にも、同じように感じている。ので、その機会、可能性そのものが奪われていることに、まだ起きてもいない喪失を、とめどなく感じ続けている。誰かを、機会を大切にしたい気持ちを、表明することを、社会的に禁じられている。これでは私は、相手のいない喪の作業を、ずっと続けているということになる。


喪の作業とは

英語ではモーニングワーク(mourning work)という。モーニングは、朝、じゃなくて、嘆きの方です。親しい人や愛着の対象を失ったときに起こる「対象喪失」によって生じる心理的過程のことで、この「悲嘆」をケアしていくプロセスをグリーフケアと呼びます。これは臨床心理学の領域で、この世を去り行く側の研究と、残された側の研究があり、どちらも半端に齧っただけの私なので、細かい説明はさておき(今、必要に迫られて勉強しなおしているのだが)。

親しい人を失った時、だけじゃなくて、「愛着の対象」を失った時。これがミソで、動物でも、関係性でも、環境でも、なんでも、「馴染みのある」「親しみを感じている」ものを失うとき、私たちは実は喪の作業を行っている。例えば、大学を出て就職する、この時でも、「学生」という立場を喪失し、なんとなく大学に行けば会える親しい人たちがいる場(今の大学生は会えない、それがどれほど辛いことか…というのはまた別の話)を失っている。嬉しいこと、喜ばしいことの陰で、それまでの愛着関係を失っている自分の、無意識下の心の痛み、嘆きがある。

これまでだって、いくつもの喪失体験をしてきた。恋人ができて、別れて、関係を失った。結婚して、苗字を失った。子どもを身ごもって産んで、それまでの身体とセルフイメージを失った。引越しをして、就職をして、転職をして、それまで属していたコミュニティを失った。そんなことには慣れっこだ。いつだって少しずつ私たちは喪失しながら、新しいものを手に入れる、その繰り返しで生きているのだから。

人は、知っていると、そこにアンテナが立つ。私はただ今、喪失体験をしている人に会うことで、また、私がちょっとした喪失体験をし続けていることで、アンテナが立っているだけだとは思う。そして、宝塚のご贔屓の愛月ひかるちゃん(今の星組公演ですさまじく惜しまれながら退団されます←大きな喪失がくる)が2018年に不老不死の青年の役で主演した「不滅の棘」が好きすぎて、何かにつけて観ているので、常に「死」「残された側」というもののことを考えているというのもある。←これはすごく大きい!

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贔屓は生きる力

ああ、大好きな人を、抱きしめて、頬を寄せたい。想いが受け取られなかったとしても、ここにこうして想っている私がいるということを、ただ、表明したい。あなたの顔が、口元が見たい。私が笑顔でいることを、見て受け取ってほしい。どんな笑顔であなたを見ているか、伝えたい。

物理的には私は大丈夫、それ自体はとてもとても恵まれているとは思う。ただ、心が張り裂けそうなんだ。きっとこれを読んだ私の友人たちは、私のことを心配すると思う。私は大丈夫、でも、どうしても感傷的になって、書かずにはいられなかった。私の大切な人たち、これから会う大切になる人たちへ。

読んでくださってありがとうございます。力が抜けたり元気が出たり、人間ってそんなもんかーと思ってくれたら嬉しいです。