「スタア」三島由紀夫

「太宰と三島と拒食とマッチョ」②の前に――。箸休め的な意味で、僕が三島の短篇でもけっこう好きな「スタア」について、ちょっと書いてみる。
といっても、今、旅先なので、文庫本が手元になく、文章を引用しながらの本格的レビューは、無理なのだけど。かえって、ネタバレしにくくていいかな。
いわゆる、芸能小説であり、これほど「芸能性」というものの本質に、迫り切った作品は、おそらくない。人間の仮面性やら、演技的生き方というものに、三島が狂おしいほどの関心と、天才的洞察力を持っていて、それが結実した、ということなんだろうけど。石原裕次郎やら、長谷川一夫やらを想わせる人物が出てきて、舞台は昭和中期の芸能界でありながら、平成になっても変わることのない、人気者の孤独とか、大衆との関係性とか、売れ続けることの限界とか、そういうものが、いろいろ学べる。
つまり、前出の二人を、たとえば嵐とSMAPに置き換えても、似たような世界が作れそう、というか。一応「拒食とマッチョ」につながる話もしておくと、太宰が成熟への不安を常に抱えていたのに対し、三島は老いることが恐怖だったのかな、というのが、なんとなく伝わってくる。
僕がリアル仕事で「スター」でなく「スタア」という表現を好むのも、たぶん、この最良のテキストの影響です。(甲斐智枝美の影響ではないと思う。って、古すぎて誰もわかんないか)

(初出「痩せ姫の光と影」2010年8月)


この記事には、三島ファンの人からの「憧れの太陽になりきれないジレンマがまた芸能への強烈な憧れを募らせたのでしょう」という秀逸な指摘が届いた。彼は役者にも挑戦したが、あらゆるものに「美」を求めたという点で、作家である前に芸術家だったのだと思う。その執着は、最近のルッキズム批判などはるかに超えた高みと深さを感じさせ、そんな批判など凡人の僻みにすぎないことを浮き彫りにもする。


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