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小栗栖のお灸

 向田邦子の作品「女の人差し指」の中に 「香水」というのがある。   これは「田園の香水」のことで、私の小学低学年の時代にも まだ「ご不浄(今のトイレ)」は もちろん、水洗でもなく 汲み取り式だった。   そこで作品にも書かれているように 月一回、近辺の農家の方が「汲み取り」に来られる。
 この匂いが とてつもなく強烈で、遠く離れていても「あ~今日は 汲み取りの日なんだな」と 一片に分かってしまうほどであった。この感性はその時代誰しもあった記憶だと思う。

 京都のど真ん中に住んでいた私の家の道路が 土からアスファルトに変えられても、しばらくの間 長年使われていたと思われる洗い晒しの木製の 荷台に 肥樽を二、三個積んだ牛車が のたりのたりと通っていた。   そして、その通った後には ぼたり! ぼたり!と、牛糞が残されていく。       それを見ながら、いったい誰が掃除するのだろう? と、         子供心に 心配したことを 思い出す。                     私の家は商売をしていたので、廻りより早く水洗にしていたようだったが 友達の家に行くと「ボットン便所」として ウナギの寝床の一番奥にあり、母屋とは 随分離れた場所にあった。
そして、不思議にも お便所のすぐ側にはイチジクの木が植えられていた。だからなのか、私はイチジクを食べたことがない。
食べ物として認識していなかったのだ。
今でこそ、フランス料理にも使われているイチジクを見、味を知った私は 洗うのもそこそこに、かぶりついているのだから…人間って勝手なものだ。

 私の幼少の頃から、母は肩こり症なのか よく「肩たたき」を子供たちに してもらっていた。だから、「母の日のプレゼント」に「肩たたき券」なるものを 作ってプレゼントしていた。
それでも足りない時は 骨の形をした「温灸器」に 温めた艾(もぐさ:ヨモギを乾燥させたもの)を入れて、いつも 一番上の姉がマッサージして いたのを思い出す。 
それでも、母の肩こりが続くと年に一度 必ず「お灸」を据えに小栗栖に行くのだ。それが、毎年「春」なのだから「小栗栖のお灸 行くえ~」との 母の一声に、私たち4人姉妹は 歓声をあげてよろこんだ。

 当時、いや、今でもあるらしく小栗栖(おぐるす)という場所に「お灸」を据えてくれる所があった。
小栗栖とは 京都伏見区東部にあって、もと醍醐村の字。伏見桃山(六地蔵北部)から山科区勧修寺までの3km沿道を 言うらしい。
そのあたりで、1582年近江坂本城へ 明智光秀が敗走途中、農民に刺されて自刃したという「明智藪」や「明智光秀の塚」があるらしい。
当時私たちは 何も知らずに、そこに訪れていたことになる。
                                  今でいう「診療所」のようで、それはとても「良く効くお灸」らしかった。子供の頃なので、その場所がどこにあるかも分からず とにかく出かけられることが うれしかった。電車に乗ったのか、バスに乗ったのか、はたまた両方で行き着いたのか 全く記憶にないけれど、干上がった田んぼ一面に 蓮華(れんげ)の花が咲いていて、それはそれは子供達にとっては 天国のような場所だった。
蓮華の花が 土地を肥やすためにわざわざ種を撒かれていたことなど つゆ知らず、それを摘むのが楽しかった。 
ある時、蓮華の花束を夢中で作っていて、フッと その「お灸の家」の方を 見たことがあった。

 春の陽ざしをたっぷり吸いこんで 満開のピンクの絨毯のようにびっしり咲き詰められた蓮華草の段々畑の一番上に ポツンと一軒屋の如く その 「お灸の家」はあった。
 藁ぶき屋根に開け放たれたお座敷は 広がる淡い春の空を背景に とても幻想的であった。そして、なによりも その藁葺き屋根の開け放たれた座敷の中で、何人かの大人たちが 上半身をあらわにして背を丸め 「うん、うん!」唸っている光景を 遠く下の蓮華畑から 見上げた時の光景は 蓮華草の花束を作っていた幸せな子供たちからは 奇妙な光景として記憶されている。しかし 今、思い出すと、私は一福の絵を思い出しているような気分になる。

 お灸を終えた母は体調が良くなって 陽気な気分になったのか、もともと歌が好きだった母なので、小栗栖街道を次のバス停まで 皆で歌を歌って歩いた記憶がある。 楽しかった!  
母は その間も、鼻を クンクンならしながら
「あ~、ええ臭いやなあ 田舎の香水の匂いや~!」と言っていた。
あれは、まさしく向田邦子の田園の香水だったのだ。

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