見出し画像

ほしになるひ(7)

「スピカも眠っていたのね。あら、いけない。もうこんな時間だわ」    壁時計を見てデボラはソファーのひじ掛けに手を置くと、「洗濯物をしまわなくちゃねえ」と言って重そうなお腹をもうひとつの手で大事そうに抱えて立ち上がった。そして、同じく立ち上がったわたしの頭をぽんぽんとやさしく二度触れると、ベランダへと向かった。取り込まれた洗濯物からは春の太陽の光の匂いがして、わたしの鼻をくすぐらせた。ガラス窓から西日が差し込み、お腹の大きなデボラの壁に映った影はほっそりとした美しいシルエットをしていた。

 その日の夜だった。デボラは少しづつ増していくお腹の痛みを耐えるようにして一夜を過ごした。一度目の出産で赤ちゃんを失っていることもあり、時間が過ぎるにつれて変調する痛みに体が敏感になっていった。 幸いにもアークがそばにいてくれたので、彼は冷静に彼女の陣痛がくる時間を測り 病院へ行く機会を待っていた。

 夜が明けると、いよいよ陣痛の間隔が狭くなってきたので、病院に連絡をすると「入院の準備をして来てください」との指示が出たようで、アークは車を玄関に回すと、あらかじめ入院の準備をしていたボストンバッグを車に積むと、デボラを支えながら車のシートまで手を貸した。わたしはそれを見ていて、直感的にもうすぐ赤ちゃんに会えるのだと感じた。         「スピカ、行ってくるね。今度帰って来るときは、あなたも楽しみにしている赤ちゃんもいっしょよ。だから、少しの間だけ、いい子でお留守番を頼んだわよ」デボラは車のウインドウを開けて、見送るわたしに声をかけた。「いってらっしゃい」と、わたしは二度吠えた。車のエンジンがかかり、私は彼女と生まれてくる赤ちゃんの無事を祈り、車が小さくなるまでずっと見送っていた。

 太陽が大きく弧を描き、東から西に傾くまで、わたしは彼らの帰宅を庭で待ち続けた。しかし、散歩の合図となっている小学校からのいつもの音楽が鳴っても、彼らが帰ってくる気配はなかた。いつ帰って来るのか、さっぱりわたしにはわからなかった。

 日はとっぷりと暮れてしまい、おなかが空き始めた。出かける日にアークからデボラが作り置きしてくれていたごはんをもらってから、今時分には いつもの夜ごはんをもらい、アークも帰ってきている時間なのに今日は帰ってこない。わたしは自分に言い聞かせた。                 「そうよね、今日はいつもと違う日だもの。特別の日だもの。赤ちゃんが生まれる日だから」    

聴き慣れたエンジンの音がしたのはもう夜中を過ぎていた。       わたしは急いで立ち上がり車庫へと駆け寄った。降りて来たのはアークひとりだった。                               「おかえりなさい、ねえ、赤ちゃんは? デボラは?」         わたしは出迎えると、矢継ぎ早に彼に尋ねた。              「スピカ、ごめんよ、遅くなって。なかなか赤ちゃんが生まれてこなくてね今夜一晩かかりそうなんだ。お前にご飯をあげたら、また病院に戻らなければいけないんだ。ひとりにさせてごめんよ」              そういって、アークは家の鍵をあけると、明かりをつけてキッチンの方へ行った。わたしは彼が帰って来てくれたことだけでも嬉しくなって、はしゃぎながら彼の後をついて歩いた。彼は冷蔵庫を開けると、デボラが事前にわたしのご飯を何日分か作り置きしていたものを解凍すると、わたし専用のボールに入れてくれた。                         お腹が空いていたせいで、ごはんをもらう前にいつもするお決まりの「待て(ステイ)」もできずに、わたしはボールのご飯をむさぼり食べはじめた。「お腹空かせてしまったね、ほらほら、ゆっくり食べないと咽るぞ」その言葉と同じくして、勢いよく食べたせいで咳込んでしまった。アークはわたしがご飯を食べている間、ずっとそばで撫でてくれていた。そして、ご飯を食べ終わると、いくつかまだ必要な物をカバンに詰め込むと車のキーを手にした。                                「また出かけるの?」わたしは彼を引き留めるように日本の足で立って彼が行くのを遮った。                          「ごめんよ、デボラと赤ちゃんのことが心配なんだ。だからそばにいたいんだよ。わかってくれるよな! お前なら…」                 「じゃ、今度帰って来るときは、きっとデボラと赤ちゃんもいっしょね」「うん、そのために今、デボラもあかちゃんも頑張ているから。おりこうに待っていておくれ」そう言うと彼はわたしにキスをした。        玄関の扉を閉めようとした彼に「まって、いつものように見送りたいから」とわたしは彼と一緒に玄関を出て、庭に回って車庫から再び彼を見送った。

 そのころ、病院ではデボラの出産が始まっていた。

 わたしは庭にある小屋でずっと彼らが帰ってくるのを待ち続けた。待っている間。わたしはマグノリアの花の香りに包まれ、春の夜空を見上げながら星を数え続けた。

 そして、わたしは起きたまま夢を見た。 

 そこには小さな可愛らしい女の子がいて、家からは微笑みの絶えない家族の姿が見えた。それはその子が1歳の誕生日を迎える日だった。 デボラがイチゴの手作りケーキをつくり、その上に一本のかわいらしいロウソクが 立っていた。それをその子が吹き消そうとするのだけれど、うまくいかなくて何度も「ふ―っ」と息を吹きかけるけれど、うまく消すことが出来ないでいる。その姿をアークが楽しそうにビデオに収めている。「こうやって消すのよ」とデボラが見よう見まねでその子に教えていて、その微笑ましい3人の姿をわたしは遠くから見ているのだ。                   部屋にはその子のものとみられる伝い歩き用のカタカタと音の鳴る遊具や、大きなクマのぬいぐるみがソファーに置かれてある。 そして、見慣れた テーブルチェアのひとつがその子のためのベビーチェアに替わっていた。   それに座ってその子は取り分けてもらった誕生日ケーキを、まだフォークが上手く使えないため、手についたクリームを舐め乍ら、飾りのイチゴを手でつかんで口に頬張っている。

 庭の方に目をやると、アークが作ってくれたわたしの小屋はまだ残されていた。けれども、そこにはもうわたしの姿はなかった。マグノリアの木陰でいくつもの季節をわたしは過ごしたけれども、マグノリアの花が咲くこの季節が一番好きだった。

また、この季節が巡ってきたのを知り、とてもやさしいしあわせな人生だったと、わたしは思う。


 デボラがひとつの新しい命をこの世界に産み落としたその夜、 わたしはアークトゥルスがかつて散歩の時に話してくれたことを再び思い出し、夜空にスピカという星を見つけた。                     「わたしはスピカ」                          そして、星を数えているとカペラやアルデバラン、そして、リゲルがわたしのもとにやってきて、星空に帰ろうと導いた。わたしの肉体は幾度となく滅びても、魂は今ここにある。だから、知ってほしい。わたしがいなくなってアークとデボラはとても悲しんだけれど、いまもあなた達のしあわせを祈り無事であることを願い、ずっと見守っていると。

 愛するアークトゥルスとデボラ、そして、わたしのちいさな可愛い妹へ

                  あなた達のスピカより。

     

                  完


永らくお読みくださり、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?