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京都の角屋(すみや)を見学して

10月5日、京都の西の端にある「角屋」を 高校の有志で見学した。

子供の頃 花魁道中(おいらんどうちゅう)を見たことがあり、その豪華絢爛たる「花魁」が 高くて重い黒塗りの三つ歯の高下駄「おこぼ」を 華奢な白塗りの裸足で 独特な歩き方でゆっくり練り歩く行列だった。
花魁の独特な歩きかたは「おこぼ」の重さに地面から足を上げることが出来ず、道路に摺り寄せるようにして進める歩き方だと、後で聞かされた。
その花魁の両脇には 袖口に小さな鈴を三,四個つけた真っ赤な着物の振袖を襟元に合わすかのような恰好で歩く可愛らしいおさげ髪の「かむろ(末は花魁か…?)」を従えていた。
こども心に 大きく結い上げられた独特の髪型に何本も飾られた鼈甲の簪(かんざし)と、前に大きく結ばれた絢爛たる帯の大きさに目を見張った。
この帯の結び方が 「こころ」という結び方ということも、見学で知った。
 花魁の言葉は独特で、どこで知ったのか、どこで読んだのか記憶にないが
自分のことを「あちきが~」とか、ありますを「ありんす~」と言っていたことを 長いキセルをゆったりくゆらしながらゆうているのを、今でも想像し聞こえてきそうな雰囲気に 時を忘れた。

 何十年か前、大手企業の案内で 同じような「おもてなし」の料理亭に行ったことがある。その時 感動した白と青の大きな市松模様の3階の部屋を楽しみにしていたのだが、その料亭ではなかったようだ。


角屋の近くの仕出し屋「乙和」のお手元入れ

「角屋のおもてなしの美術館」・「島原と角屋」

島原
 江戸期以来の公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)
完命により寛永18年(1641)島原の前身である六条三条筋町から 現在の朱雀野に移された。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから「島原」と呼ばれてきたが、正式名は「西新屋敷」という。
「島原」は単に遊宴を事とするにとどまらず、和歌俳諧の文芸の活動が盛んで、ことに江戸中期は島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。
しかし、明治以降すっかりさびれてしまい、現在では「揚屋(今の料亭)であった「角屋」と「置屋(太夫と芸妓を派遣する店)」の「輪游屋」、それに島原人口の「大門」(慶應3年・1867年再建)のわずか3カ所の名残をとどめるとなる。

 角屋
  島原開設当初から連綿と建物と・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化である「揚屋建築」の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定。
 「揚屋」とは 江戸時代の書物の中で「響すを業とするなり」と定義されているところによると、現在の「料理屋料亭」にあたると考えられる。
 1階に大きな台所があり、お客様を2階にあげることから「揚屋」とついたらしいく 饗宴の為の施設ということから、大座敷に面した広庭には 必ずお茶席を配することが 重要な特徴とされている。
 花魁は芸だけでなく知的な女人でなければなれない。とされていた。
当時のハイクラスの重鎮をもてなさなければならないので、茶の作法をたしなみ、和歌を詠みあらゆることに長けていなければ 花魁は務まらなかった


大広間から見える2代目の立派な松の向こうにある茶室

  
  角屋のQ&A

角屋は遊郭の店ですか?
 角屋は遊郭の店でなく、今の料亭にあたる「揚屋」という業種の店です。太夫や芸妓は「置屋」から派遣してもらって、お客様に歌舞音曲の遊宴を楽しんでいただくところです。
揚屋建築:おお座敷に面した広庭には 必ずお茶席を設け、庫裏と同規模の
    台所を備えているのが特徴
遊郭建築:おお座敷、広庭、茶席等なく、ほとんどが小部屋のみの構造

いつまで営業していましたか?
 「揚屋」としては 明治5年(1872)まで、それ以降はお茶屋業にし昭和60年(1985)まで「松の間」において 宴会業を行っているが、揚屋は「一見さん(紹介のない方)お断り」で、支払いは「つけ(掛け売り)」のみで、現金決済をおこないませんでした。

なぜ格子造りの外観になっているのか?
 角屋の外観の格子は、近世初期の京都町家に広く使用されていた格子のすがたを伝えています。したがって、江戸吉原の花魁を見せる為の牢獄のような格子(籬 まがき)ではありません。

なぜ 赤壁になっているのですか?
 角屋の壁は赤色がすべてではありません。他に、白漆喰(しっくい)壁、黄色の大津磨き壁、浅葱(あさぎ)色(bるーぐれー)の九条土壁、淡い茶褐色(ベージュ)の聚楽土壁があります。
 赤壁はもともと揚屋など花街の壁ではありません。角屋より古い建物を調べますと、社寺の書院、客殿に使用された高級壁であることが判明。
揚屋がそうした高級壁を用いることによって、並みの建物でないことを示したものと思われます。また、赤壁は華やかなものですから、祇園などの花街に多く用いられています。

なぜ室内は真っ黒に煤けているのですか?
 昔の証明は、蝋燭を灯す燭台や灯油の行灯が用いられてきました。
室内を明るくするためには、沢山の蝋燭を灯す必要でした。その結果、油煙で天井、襖などの室内が真っ黒に煤けたのです。司馬江漢の日記にか「燭台数十、昼の如くテラス」とあります。が、螺鈿細工等かろうじて煤がつかなかった細工ものが 未だに当時のきらびやかな様を かろうじて残されていたのが印象的でした。
 見学した「松の間」の2階の部屋は 特別立派な細工や創りで、特別な人達を迎えるような間だった。立派な床柱には 2か所刀傷が残っていた。
よく訪れた新選組が 酒の勢いで付けたとか…!
その刀傷の跡を見ながら、やはり「新選組」は暴れん坊だったんだなあ、と思った。
その和室もいたるところに螺鈿が描かれ、障子の格子や襖絵も全てが凝ったつくりで感心するばかりであったけれど、やはり蝋燭の煤で真っ黒になっていた。

   島原のQ&A

なぜ島原の地域を花街(かがい)というのですか?
 都明治以降の歓楽街は市構造とは関係なく、業務内容で「花街」と「遊郭」の2つに分けられました。
「花街」は歌や舞を伴う遊宴の町
「遊郭」は歌や舞もなく、宴会もしない陥落のみの町

島原は、囲郭的な都市構造でしたが、業務内容は歌舞音曲を伴う遊宴の町で、たんに遊宴だけを事とするものではありません。
 島原の町は、和歌俳諧等の文芸活動が盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈しました。明治6年には「花街」の象徴である「歌舞練場」が開設され、「青柳踊り」「温習会」などが上演されました。このことから、陥落専門で文化のない街である「遊郭」という用語では、島原を充分理解することができないのであります。ちなみに、遊郭には歌舞練場がありません。

島原は江戸の吉原とどのように違いますか?
 島原の入口は当初、東口の一つでしたが、その後西口が出来ると共に、島原内に劇場が開設され一般女性も入ることができました。
島原は開放的な町で、天保以降土塀や堀(かき揚げ堀)もなくなり、老若男女の誰でも出入りができました。そのため島原は360年間、放火による火事は皆無で、嘉永7年(1854)にわずか一回、失火によって、島原の東半分が焼失したのみであります。
 島原は江戸時代、歌舞音曲をともなう遊宴の町であり、しかも明治以降、「青柳踊」、「温習会」を上演していたことから、「花街」となります。
それにたいして、吉原は周囲に10メートル幅の堀を設け、入り口を一つにして厳しい管理を行い、遊女を閉じ込めるなど閉鎖的な町でした。そのため逃げ出すための放火が多く、新吉原時代(1676~1866)の190年間に21回、明治期には7回もの大火を発生しています。
また、吉原は江戸時代、俳壇や歌壇が存在するなどということもない、歓楽専門の町でありました。明治以降も歌舞音曲を必要としない業務であったため、歌舞練場も持っておりません。したがって、吉原は都市構造上からも、業務上からも、まぎれもなく「遊郭」ということになります。

揚屋と置屋の違いは?
 揚屋:太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫、芸妓を派遣してもらって、お客様に遊宴していただくところであります。揚屋は料理を作っていましたので、現在の料亭、料理やにあたります。ただし、江戸時代のみで、明治以降はお茶屋業に編入されます。
 置屋:太夫や芸妓を抱え、お客様を迎えませんでした。が、明治以降、お茶屋業を兼務とする置屋では宴会業務も行うようになりました。

 この揚屋と置屋の分業制を「送り込み制」と言い、現在祇園などの花街に「お茶屋(宴席)」と「屋形(芸妓、舞妓を抱える店)」の制度として伝えられています。これに対して、吉原の遊郭の店は自ら娼妓を抱えて歓楽のみ営業を行います。これを「居稼ぎ制」といいます

太夫と花魁(おいらん)の違いは?
 太夫は、傾域(官許のより、遊宴の席で接待する女性)の芸妓部門の最高位となります。
太夫は六条三筋町時代、四条河原町で能や舞に明け暮れ、その中からすぐれた傾域を「能太夫、舞太夫」と呼んだことが太夫の始まりとされます。
太夫は舞や音曲のほかに、お茶、お花、和歌、俳諧などの教養を身につけていました。
 ところが、花魁は芸を披露しないため、歌舞音曲を必要としません。まさしく娼妓部門の最高位となります。

太夫と花魁との外見上の大きな違いは、帯の結び方でもわかります。
太夫の帯は前に「心」と結ぶのに対して、花魁の帯は 前にだらりと垂らして結びます。

 京都に生まれ京都で育った人間が 他県の人に京都の魅力を教わることがしばしばありました。
 鷲田精一先生の「京都の平熱」を知ったのも、他県から来た学生さんでした。その中で鷲田先生が書いてられるように
「京都の人は 京都のことを余り知らない」というより「知ろうとしない」ところがある。
ほんま、そういうとこ あります!
知りたければ、いつでも知れる!と言う安易な気持ちもありますが、あんまり知らないことだらけで奥が深く、諦めている面もなきにしもあるがな!かなあ…?です。

ばあさんになって、やっと「花街」のことを知ったなんて…
ほんま、笑っておくれやすな!
けど、ええとこ 連れてってもろうて よかったですわぁ
おおきに ありがとさんどした。




 


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