見出し画像

居場所がなかった日②

前回はこちら
https://note.com/ikecop/n/n3881a1ab3aeb

母の口癖は、「こんなに愛されてる子供なんていないんだからね」でした。

記憶を文章に綴るとこんなに急に他人事になるんだな、といまとても複雑な思いです。
毒親の書籍を調べて、ふと当てはまることに出会うと安心すると同時に悲しくもなります。

私はどうにも、母の娘なのです。

私の母が毒親なんかではないという思いは、つまりは私が何もないところで派手に転んだだけの人生になる。それも私には耐えられないのです。

高校3年の時に、偏差値の高い県外の大学を目指していました。その志望校を断念することになった時、なおも家を出ようとする私に母が理由を尋ねたことがありました。家にいるのが苦痛だから、と小さく呟いた私に母は低い声で答えました。

「親の前でよくそんなことが言えるね」

涙を溜めて唇を噛んだ母は、目を合わせてはくれませんでした。

母は頭の回転が早く、忘れっぽい人です。高校の頃、帰りが遅くなる日の連絡は1回話すだけでは忘れて、怒涛のように怒られるので、気がつくと1週間前、3日前、前日、当日まで連絡するようになっていました。

喧嘩で口ごたえをうっかりしたときには、その喧嘩がひと段落してからも私の部屋のベッドに腰掛けて、せつせつと母の思いを聞くことがよくありました。

いまはもうあまり覚えていませんが、私はその時間が酷く苦痛だったことだけ印象に残っています。飼っていた犬にはハウスというパーソナルスペース、誰にも侵されない領域があるのに、私にはないんだな、と、ぼんやり思っていた気がします。

普段は無頓着で、中学の休日部活のお弁当に対しても「お金あげるからコンビニでもいい?お互いその方がいいでしょ?」とよく言っていました。

今のご時世、その方が母の負担は減るのだと思いますが、成績を問われ、行動を問われ、思考を問われている私にとっては、母がお弁当を作ってくれることでしか愛情を感じることが出来なかったのです。

より不安定だった高校の頃は母が握ってくれたおにぎりが、ただただ愛されているという証拠で、救いでした。ご飯を敷き詰めたのではなくて、母の手の形をしていることで私は母の子なのだ、ということ感じることができたのです。

中学の終わりの頃、母はソーシャルゲームにハマり出しました。話しかけてもきちんと返ってくることの方が珍しくなります。食事の時までするときもあり、父も妹も祖母も止めたのですが、一向にやめられないまま今に至ります。

受験期に差し掛かっても、母は勉強する私の前でゲームをし、ネットの人とにこにこチャットをしていました。私の前でゲームしないで!とキレたのを今でも覚えています。

母はネットの世界に限らず、外出先でも私の存在を隠します。年齢がバレるのが嫌だから、という理由で妹の歳の子がいることしか話しません(今は笑い話にできるのですが)。きれいであることに恐らく執着をしていて、父に内緒でなんか肌に注射をしています(高いやつです多分)。

私が大学生になった今、母は新しい趣味を見つけて、中学生の妹を置いて夜な夜な遊びに出かけています。お水だったり(お水の方を差別したい意図はありません)、倫理的に悪いことではないことを、娘としては祈るしかありません。

久しぶりに帰省したら、家には妹しかおらず、夕飯を軽々とつくるその姿にちょっと悲痛なものを感じました。

もともと母が私に過干渉していて、妹にあまり構ってないことは高校の時点でわかっていたので、私が家を出ることで妹に視線が向くかな…なんて思ったのですが、なかなか上手くいきませんでした。

異性と変な距離感で接して来てしまった高校生活のせいで、大学での私は0か100でしか男性と話すことができません。

今ならおかしいとわかるのですが、性的興味を持たれない=嫌われている、と思うのです。その逆も然り。

50のコミュニケーションが驚くほどに欠落しているのです。答えのない会話に対する相槌ができないし、世間話もひどく難しく感じます。

うわべの話をする相手が腹の底で何を考えているのかが、怖くて怖くて仕方がないのです。

私が頭の中で小さくパニックになってることを悟られないように、最近よく愛想笑いをしています。


fuina.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?