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介護殺人『ロストケア』を活かす道

ロストケア

介護殺人を描いた『ロストケア』を妻とDVDを借りてみました。想った以上に考えさせられ、深い。妻は、重く哀しい。と言っていた。原作者の葉真中顕さんが、介護殺人と言うテーマに託した願いというNET記事も読ませてもらいました。最後に書いてあった、

きっと、救いはある。
それが社会の希望だと、僕は信じています。

私たちも信じています。そこで、答えとか、偉そうなものでは、決してないですが、ロストケアという問題の根本を深め、この問題を未来に活かす道を考えてみました。


正しさと共感
ロストケアをみて、まず感じるのは、介護殺人の「正しさ」と「共感」という対立の感情。みんなが必ず、そう感じるということではないですが、少なからず、「どっちの想いもわかる」とか、「どちらかと言ったら、私はこっちのがわかる」とか、そうゆうことを感じたり、会話したりした人は多いのではないでしょうか?私たちは、知らずの内に、正義と悪、白か黒、というように、対立構造で考えてしまう癖があります。逆に言えば、その見方がみやすいのだとも感じます。

しかし、この「正しさ」と「共感」という対立での対話では、永遠にこの問題は解決へ向かうことがないのだと思います。原作者の葉真中顕さんもおっしゃっておりますが、対立構造でみるのではなく、この問題をどこまで自分事として向き合うかが大事になってくるのだと感じています。でなければ、どこまで言っても、他人事で、対立構造の延長戦になってしまうのです。

本当の“救い”は何か?『ロストケア』原作者が介護殺人というテーマに託した願いとは 抜粋

根本的な問題
この問題を考えていくなかで、根本の問題とは何か?というのが、少しだけ浮彫になっていくのを感じました。

それは「分断」だと感じています。

この映画をみたときに、まず感じたのが、大友検事の正しさと、斯波の介護殺人への共感でした。この「正しさ」と「共感」という分断のままでは、先ほども言ったように、永遠に平行線なのです。そして、私たちは大事なことに気づきました。この「正しさ」と「共感」という分断以外にも、いくつもの「分断」をしてしまっているということです。裕福な人たちと貧しい人たち、つまり、強者と弱者。高級老人ホームと自宅介護。家族とシングル。考えると、沢山の分断を、知らずのうちにしてしまっているのです。きっと、今を生きる人のほとんどが、知らずのうちに、こういった分断をしてしまっているのではないでしょうか?

そして、この分断を限りなく大きな視点でみてみると、すべての人が、共通して分断してしまっていることにたどり着きます。これが答えとか正解ということではなないですが、今、私たちが考えるうる、最も大きい分断は「いのち」だと感じました。この「いのち」の分断が、この問題の根本なのではないかと気づきました。さらに言えば、今、私たちの日常や社会、世界で起きている問題のほとんどが、この「いのち」の分断なのです。

この「いのち」の分断が根本問題であり、この分断をみんなで一緒に超えることが、社会、いや未来の希望なのではないかと感じています。

「いのち」の分断を超えて

では、どうしたらこの「いのち」の分断を超えていけるのでしょうか?そもそも、そんなことができるのでしょうか?言葉にしていくことで、これがどれほど難しいことなのかを、強く感じています。しかし、私たちは信じています。必ず、みんなと一緒に、この分断を超えることができると。

「いのち」の分断。この言葉を聞いて、どんなことを感じますか?いろんなことを感じると思います。私たちは、とにかく、「私」を優先してる自分に気づきました。私と○○と、すべてを分けて、「私」を優先してしまっているのです。みなさんは、どうでしょうか?

では、この「いのち」の分断を感じたまま。「介護」をみてみてください。
私たちは、知らずのうちに、どんな「いのち」の分断をしてしまっているのでしょうか?

「介護をする側」と「介護を受ける側」

そもそも、ここが介護の大きな「いのち」の分断なのではないでしょうか?
同じ「いのち」として、誰かを介護するとかしないとかではなく。本当は、互いに助け合って、教えあって、活かしあっているということを忘れてしまっているのではないでしょうか?そんなことを感じています。

この介護の分断を大きく、当たり前にしてしまっているのが、もしかしたら「お金」なのかもしれません。お金というより、お金の価値感だと感じています。

当たり前なことですが、介護利用者の介護をする仕事として、給料が支払われます。つまり、介護をするという行いに価値があり、その対価として支払われます。介護の場合は、介護保険などがあるので、国が負担するものもあります。ここで、大事なことは、この介護をする側は、介護利用者の方々から、何かしらの価値をもらっていないのか?ということです。在宅介護でも、施設でも、関係なく、介護をしたことがある方は、考えてみてください。きっと、おじいちゃんおばあちゃんから、はっとさせられるようなことを教えてもらったことがあると思います。

私たちは、介護の仕事をしているわけでは無いのですが、私の母が介護に携わっていて、おじいちゃんおばあちゃんから、ほんとうにたくさんのことを教えてもらうという話を聞き、実際に、ある介護施設に訪問させていただきました。その時に、本当に、沢山のことに気づかせてもらいました。その一つを動画にしました。3分ちょっとの短い動画です。ぜひ、見てください。

動画では、すべてを伝えるのは難しいかもしれませんが、この時、本当に空気が変わり、みんながはっとしたんです。自然と拍手が起こりました。恥ずかしさとか、愛とか、あったかさとか、本当に大切なことに気づかせてもらいました。きっと、信じられないくらい多くの方々が、同じように、おじいちゃんおばあちゃんから、大切なことに気づかせてもらっていると思います。

しかし、介護をするということには、お金が発生して、この気づきにはお金が発生しないのです。お金が、介護と気づきに価値の分断を起こさせてしまっているのだと感じています。これまで、当たり前のことだったので、なかなか、伝わらないと思うのですが、よく考えると、みえてくるのではないでしょうか?

介護というサービスもおばあちゃんの気づきも、どちらも価値あるものなのです。でも、そこにお金があるかないかで、価値があるものとないものと分けてしまうのです。そんなつもりは、私たちにはないのですが、自然とそうなってしまっているのです。それが、介護を受ける側と介護をする側という分断を、より強く意識させてしまっているのだと感じています。

そこで、私たちは、こういった、おじいちゃんおばあちゃんが教えてくれている、大切なことを可視化しカタチにして、ちゃんと価値あるものにしていく活動をしていくことを決めました。そうすることで、「介護をする側」と「介護を受ける側」という分断を超えていくことができると実感しました。

「弱者」という分断
介護を受ける側と介護をする側という分断を超えるという目的で、おじいちゃんおばあちゃんが教えてくれていることを、動画というカタチにしていくなかで、改めて気づいたことがあります。それは、介護だけでなく、社会では、同じような分断が起きているということです。そして、その中でも大きな分断が、「弱者」という分断だと感じています。介護利用者、こども、障がい。私たちが知らずのうちに、分断してしまっている「弱者」。本当は、この世界に「弱者」なんて人はいないのではないでしょうか?「弱者」とは、私たちの分断した意識が作り上げた虚像なのではないでしょうか?本当は、「弱者」と言われる方々から、私たちは、本当に大切なことを教えてもらっているのではないでしょうか?

そこで、介護に囚われることなく、私たち人類が、これまで、知らずのうちに、分断してきてしまった、特に「弱者」と呼んでしまっている方々から、教えてもらっている、大切なことを動画にして、カタチにしていくことにしました。世界中の、みんなが、日常の中で、分断してしまっていることに気づき、本当は教えてもらっていることを、動画や絵本などのカタチにしていくのです。いつの日か、この分断を超えるという生き方が、人類の文化になるように、新しい市場として構造化し、再生産していけるようなプロジェクトを構想しています。

この活動をしてきて、本当に感じていることは、私たちが「弱者」としてしまってきた方々は、私たちよりも、「いのち」として、大事なことを知っているということです。そこに、みんなで気づき、カタチにして、道にしていくことで、いろんなことが変わっていくと信じています。

最後に
私たちは、この活動や構想が絶対に正しいということを言いたいのではなく、むしろ、もっとひらかれた、いい方法もあるはずと自覚しています。ただ、今のところ、私たちでは、これしか浮かんでいないということです。大事なことは、一人ひとりが、どうしたら、この「いのち」の分断を、みんなと一緒に超えていくことができるか?という視点で、実際に行い、そして、共に活かしあっていくことなのだと思っています。ぜひ、何かあれば、ご連絡いただけると、うれしいです。

「いのち」の分断を超えて、ホンモノの価値感を共に創っていく。それが、未来の希望になるのではないでしょうか?

私たちは、そう信じ、そして、疑いながら、日々、「いのち」の分断を超える行いをし続けていきたいと思っています。

最後まで、読んでいただき、本当にありがとうございます。
ご連絡お待ちしております。


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