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時系列倒置の研究 6・「彼岸過迄」【夏目漱石】

作品の解説はこちらです。

作品はこういう章立てです。


前半と後半が対称になっています。


ところが、後半は主人公田川が活動するわけではありません。単にいろいろな話を聞くだけです。
話の内容は、
第四章雨の降る日:幼子宵子が死んだ話
第五章須永の話:須永と千代子のつかず離れずの男女関係
第六章松本の話:須永の出生の秘密、須永の旅の話
なのですが、これらいずれも物語の冒頭より過去の話です。
となりますと、物語を時系列として整理すると以下になります。


奇抜な作品です。冒険大好きの主人公田川が社会でよその家庭の状況を探るのですが、やっているのは歴史、過去の研究なのです。研究が終わると、時間は冒頭に戻ります。ループします。
もっとも読者に記憶力に薄い人間が居ることは漱石は百も承知ですから、結末(あとがきのようなもの)を最後に加えています。全体を思い出させようとしているのです。全文引用します。カッコ内は私の注です

結末

 敬太郎の冒険は物語に始まって物語に終った。彼の知ろうとする世の中は最初遠くに見えた。近頃は眼の前に見える。けれども彼はついにその中に這入って、何事も演じ得ない門外漢に似ていた。彼の役割は絶えず受話器を耳にして「世間」を聴く一種の探訪に過ぎなかった。(全体まとめ)

 彼は森本の口を通して放浪生活の断片を聞いた。けれどもその断片は輪廓と表面から成る極きわめて浅いものであった。したがって罪のない面白味を、野性の好奇心に充みちた彼の頭に吹き込んだだけである。けれども彼の頭の中の隙間が、ガスに似た冒険譚で膨脹した奥に、彼は人間としての森本の面影を、夢現のごとく見る事を得た。そうして同じく人間としての彼に、知識以外の同情と反感を与えた。(第一章・風呂の後のまとめ)

 彼は田口と云う実際家の口を通して、彼が社会をいかに眺めているかを少し知った。同時に高等遊民と自称する松本という男からその人生観の一部を聞かされた。彼は親しい社会的関係によって繋がれていながら、まるで毛色の異なったこの二人の対照を胸に据すえて、幾分か己の世間的経験が広くなったような心持がした。けれどもその経験はただ広く面積の上において延びるだけで、深さはさほど増したとも思えなかった。(第二章・停留所および第三章・報告のまとめ)

 彼は千代子という女性の口を通して幼児の死を聞いた。千代子によって叙せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、美くしい画を見るようなところに、彼の快感を惹いた。けれどもその快感のうちには涙が交っていた。苦痛を逃れるために已を得ず流れるよりも、悲哀をできるだけ長く抱いていたい意味から出る涙が交じっていた。彼は独身ものであった。小児に対する同情は極めて乏しかった。それでも美くしいものが美くしく死んで美くしく葬られるのは憐れであった。彼は雛祭の宵よいに生れた女の子の運命を、あたかも御雛様のそれのごとく可憐かれんに聞いた。(第四章・雨の降る日のまとめ)

 彼は須永の口から一調子狂った母子の関係を聞かされて驚ろいた。彼も国元に一人の母を有もつ身であった。けれども彼と彼の母との関係は、須永ほど親しくない代りに、須永ほどの因果に纏綿されていなかった。彼は自分が子である以上、親子の間を解し得たものと信じて疑わなかった。同時に親子の間は平凡なものと諦めていた。より込み入った親子は、たとえ想像が出来るにしても、いっこう腹にはこたえなかった。それが須永のために深く掘り下げられたような気がした。(第五章・須永の話のまとめ)

 彼はまた須永から彼と千代子との間柄を聞いた。そうして彼らは必竟夫婦として作られたものか、朋友として存在すべきものか、もしくは敵として睨み合うべきものかを疑った。その疑いの結果は、半分の好奇と半分の好意を駆かって彼を松本に走らしめた。彼は案外にも、松本をただ舶来のパイプを銜えて世の中を傍観している男でないと発見した。彼は松本が須永に対してどんな考でどういう所置を取ったかを委しく聞いた。そうして松本のそういう所置を取らなければならなくなった事情もつまびらかにした。(第五章・須永の話および第六章・松本の話のまとめ)

 かえりみると、彼が学校を出て、始めて実際の世の中に接触して見たいと志ざしてから今日までの経歴は、単に人の話をそこここと聞き廻って歩いただけである。耳から知識なり感情なりを伝えられなかった場合は、小川町の停留所で洋杖ステッキを大事そうに突いて、電車から下りる霜降の外套を着た男が若い女といっしょに洋食屋に這入る後をつけたくらいのものである。それも今になって記憶の台に載のせて眺めると、ほとんど冒険とも探検とも名づけようのない児戯であった。彼はそれがために位地にありつく事はできた。けれども人間の経験としては滑稽の意味以外に通用しない、ただ自分にだけ真面目な、行動に過ぎなかった。
(第二章・停留所のまとめ)

 要するに人世に対して彼の有する最近の知識感情はことごとく鼓膜の働らきから来ている。森本に始まって松本に終る幾席かの長話は、最初広く薄く彼を動かしつつ漸々深く狭く彼を動かすに至って突如としてやんだ。けれども彼はついにその中に這入はいれなかったのである。そこが彼に物足らないところで、同時に彼の仕合せなところである。彼は物足らない意味で蛇へびの頭を呪い、仕合せな意味で蛇の頭を祝した。そうして、大きな空を仰いで、彼の前に突如としてやんだように見えるこの劇が、これから先どう永久に流転して行くだろうかを考えた。(物語終了時点総括)

(引用終わり)

「結末」の内容を表にするとこうなります。


順序良く解説していますが、最後に第二章・停留所を再度取り上げます。「けれども人間の経験としては滑稽の意味以外に通用しない、ただ自分にだけ真面目な、行動に過ぎなかった」と論評しています。

実際過去を含めた時系列をよく見ると、


この停留所が中心に来ます。停留所で主人公田川は、昔からの望みだった冒険らしきものをするのですが、一生懸命やったにしてはたいした経験ではありません。しかしそれ以外では人の話を聞いているだけで、さしたる活動はしていない。一方彼が「退嬰的」と評して馬鹿にしていた須永が、既にタコ取りも遠国旅行も経験していました。田川は妄想だけの冒険家だったのです。真の冒険家、苦労人は退嬰的に見えた須永のほうでした。

ということを明らかにするために、この作品は手紙と回顧の発言で後半を埋めつくします。その結果作品の時系列が複雑になっている。なっているのは特定の効果、強調のためではなく、時系列逆行こそがこの作品の目的だったのですね。田川と須永の対比のために必要な措置です。

そういう意味では本作は推理小説に似ています。推理小説は最初に事件が起こるが、真相がわからない。作品を通じて徐々に情報と洞察が付加されてゆき、最終的に冒頭の事態の正しい説明に到達します。作品を通じ作品以前の時間を再現します。本作も同じ作業です。

「門」との関係

本作の前の作品、「門」は禅寺に修行にゆく話です。禅寺では「公案」が出ます。「公案」とはようは問題です。「公案」を考えながら座禅して、答えを師匠に言います。たいてい否定されて追い返されて、さんざんいじめられるようです。実際「門」でも師匠に馬鹿にされて、なんの悟りも得られません、と思いきや、じつは大層進歩していたというのが小説「門」なのですが、その時出される公案は「父母未生以前の本来の面目」、つまり「父母が生まれる前の自分の本質を考えよ」という問題なのです。

私の考えでは答えは、「今現在、この刹那の自分」になります。詳しくは「門」の解説参照いただきたいのですが、

どうもその公案の考え方を小説化したのが本作のようです。妄想の中の冒険家田川は、物語の終わりでは「大きな空を仰いで、彼の前に突如としてやんだように見えるこの劇が、これから先どう永久に流転して行くだろうかを考えた」とあります。田川は物語が流転するということを悟ったのです。目先の面白さの追求に一旦けりをつけられました。

仏教と物語

物語は時系列に沿って展開されるものです。その時系列上でしばしば強調のために倒置が実施されます。倒置をしたところで、時系列上という縛りから完全に開放されたわけではありません。時系列の縛りから完全に開放するのは仏教です。
仏教は全てを原因→結果で考えます。ちなみに現状は悪い結果です。現世は全て悪い結果なのです。そしてそこから脱却しようと考えます。脱却をかれらは解脱と呼びます。
彼らは全てを原因→結果で考えますから、解脱のためには、悪い結果を生んだ悪い原因を根絶しなければなりません。清貧な生活をして悪い原因を取り除いてゆきます。努力の結果として、過去の悪い因縁から解放された自由な状態を獲得できます。つまりそのとき、過去の履歴がなくなる。物語とは履歴ですから、仏教の究極目標は「脱物語」とも言えます。漱石は仏教に熱心でしたから、熱心ゆきすぎてこんな面白くない物語を書いてしまったわけですが、物語とはなんぞやと考える上では興味深い作品になっています。

逆に言えば、「脱物語」をしようとするとどうしても仏教的になる。「メメント」という映画がありまして、時系列倒置で全編を埋め尽くしています。

本編見るよりwiki読んだほうがわかりやすのですが、

鑑賞してみますとなんのことはない、輪廻転生繰り返しながら落ちてゆく話です。ただの仏教説話になります。

仏教説話と言いましたが、仏教にもジャーカタなどの物語もあるにはあるのですが、歴史物語がない。物語そのものに否定的なのですから、当然歴史なんぞどうでもよいのです。そこのところが仏教がヒンズー教に負けた理由だと私は思っています。ヒンズーには「マハーバーラタ」がある。「マハーバーラタ」の成立によって仏教は敗北したと思っています。説話的な豊穣さでは儒教のはるか上を行っていた道教が儒教に敗れたのも同じ理由ではないか。儒教には「尚書」「春秋」という歴史書がありますから。

ということから考えてみれば、時系列グチャグチャ物語は、どうも物語としては脆弱なようです。倒置により一瞬のテンションは獲得できます。物語の上で重要な技法ではあります。しかしそればっかりの「メメント」になると、「物語として凝っているな」という感想しかなくなります。凝っているが、だからどうなんだと。
「彼岸過迄」も失敗作です。大規模倒置に挑戦したのは勇敢ですが、倒置により物語の面白さがむしろ損なわれている。そこで一工夫したのが「こころ」になります。

次回は夏目漱石「こころ」の予定です。


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