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「門」あらすじ解説【夏目漱石】

夏目漱石の「門」は時間を主題にしたファンタジー作品ですが、設定が普通すぎて地味すぎてファンタジーと誰にも認識してもらえていません。「崖の上のポニョ」の下敷きになった作品ですが、ポニョを100倍地味にすると「門」になります。

あらすじVer.1

主人公、野中宗助は問題に遭遇します。問題から逃げたくなってお寺に座禅にゆきます。座禅しても特に得られる事は無かったようなのですが、自宅に帰ってみるとあら不思議、問題は解決していました。(終)

地味ファンタジー

異世界に入り込んでそれなりの体験をして、日常に戻ってくると問題が解決しています。単純にファンタジーです。しかし肝心の異世界が、禅寺に若い坊さんといじわるな老師が居るだけです。陰気なムードに引きずられて、主人公が座禅したが失敗した話、と誤解しているひとがほとんどです。間違っています。宗助は失敗していません。座禅の功徳でわけがわからないまま問題が解決しているのです。「帰ってみると大金持ちになっていました」話の、小規模版です。

前作「それから」で漱石は、「ニーベルングの指環」を下敷にしました。

「指環」は神話ですから、ファンタジー系の物語の力を再確認したのだと思います。だから筋はファンタジー、しかし漱石はリアリストですから日常生活に即した描写をします。結果恐ろしく地味なファンタジー文学が完成しました。

あらすじVer.2

野中宗助は妻の御米と、崖の下でひっそり世帯を持っています。役所づとめの静かな生活です。弟の小六は叔父の佐伯にあずけています。

ところが叔父の佐伯が死にます。佐伯家は小六の学資出せなくなります。宗助も金持ちではないので、卒業させてやる資力がありません。困りました。とりあえず宗助宅に引き取りますが、二人暮らしだった狭い家に小六が入ってくるので、妻のストレスが蓄積されて寝込んでしまいます。

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もっとも悪いことばかりではありません。崖の上の家主、坂井と知り合いになれます。坂井宅に泥棒が入るのですが、宗助の庭に落とした手文庫(重箱のような書類入れ)を持っていった縁で坂井と親しくなれます。小六を坂井宅の書生として預かってもらえるという話になります。宗助が出している食費が浮きますから、佐伯の家と宗助で少しずつ負担すれば、小六は学校を卒業できます。めでたいです。

もっとも良いことばかりではありません。家主坂井の弟は蒙古(モンゴル)に行っているのですが、東京に顔を出すようです。その友人で安井という人物も一緒に来るそうです。宗助は青くなります。

実は妻の御米はもともと安井の内縁の妻でした。宗助は略奪婚をしたのです。夏目漱石といえば略奪婚のスペシャリストです。坊っちゃんの赤シャツ、虞美人草の藤尾、それからの代助、最終的にはこころの先生に到着するのですが、本作でもいつもの設定使ってきます。妻を奪われた安井はその後転落したとの噂は聞きます。細かい消息は不明でしたが、坂井の弟と知り合っていっしょに活動していたと判明します。安井とは顔を合わせるのが恐い。変なモンゴル化してパワーアップして報復されそうです。てつはうとか投げてきそうです。

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進退窮まった宗助は、禅寺に逃げます。一週間ほど役所休んで座禅を組んで精神落ち着けようとします。座禅には「公案」というものが出ます。要は「問題」です。座って問題を考え続けるのが修行なのです。宗助に出された公案は「父母未生(みしょう)以前本来の面目はなにか」です。
自分は父母から生まれました。その父母も生まれていない時から存在している自分の本質があるとすれば、それはなにか、という問です。わけがわかりません。自分が存在していないのに、自分の本質があると考えなければいけないのです。本質が実存に先立つようです。まったく理屈に合いません。

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宗助はそれなりに努力して考えます。なんとか答えを思いつきますが、いじわる老師にあっさり否定されてヘコみます。結局滞在中に正解をみつけられませんでした。

若い坊さんはやさしく「座った分だけ功徳がある」と言ってくれますが、いじわる老師は「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜しい事で」と言います。現代風に言うと「進歩ゼロでしたね」。とことんいじわるです。

失望して帰って、恐る恐る家主坂井の家に行ってみると、坂井弟と安井は来たが帰った、とのことでした。とりあえずピンチは去りました。小六のほうも、佐伯の家が少しお金を出してくれるように、小六が勝手に手配していました。後は家主坂井に頼むだけで小六問題解決です。

とにかく再び平穏な日々が戻ってきました。妻の御米は春が来て有り難いと言います。宗助は爪を切りながら、「うん、しかしまたじき冬になるよ」と言います。(終)

過去遡行

最後の宗助のセリフを批評家たちはほぼ誤読しています。たった数日間の座禅ですが、宗助はかなりのものを獲得しました。座禅が完全な失敗だったと思う人は宗助同様、いじわる老師の策略にはまっています。老師は「今わからなくても見込みがあるから、世俗の中でも考えるように」と思って最後に「惜しい事で」と言っているのです。ここが本作最難関のツボです。

最後の宗助の「またじき冬になるよ」とは、悲観的な言葉ではありません。座禅によって性根が座り、一喜一憂しない不動心を身に着けたのです。春になった瞬間にまた冬が来る心の準備ができている。時間スケールがでかいです。実は役所のほうでも、人員整理の波を乗り切っただけでなく、少しですが増給しています。休暇取ったくせにずるいです。理不尽なほどに状況は全部良くなっているのです。
そうなった原因はなにか。「父母未生以前本来の面目」を考えたからです。作中正答は明示されません。宗助の解答案も書かれません。だから読者は正解がわからずじまいです。逆に言えば、答えはなんでもよい、問いが重要なのです。しかし少しは手がかり欲しいので、以下考察してみます。

父母が生まれる前の本来の面目、となると当然祖父祖母が生まれる前の本来の面目、曽祖父母が生まれる前の本来の面目、と思考は延々と時間を過去に遡って行きます。最終的にデボン紀まで遡ったかどうかは定かでないですが。

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ともかく遡る時間が増えるほど、過去の履歴の増加に反比例して、記憶の中にある父母や祖父母の実体としての重さが減少してゆきます。父母祖父母への記憶の量が一定で、想定する過去の時間量が増えますから、父母祖父母への記憶が相対的に薄まってゆきます。薄まるものの中には、これまでの自分の人生の記憶全般も含まれます。大量の過去を考えるがゆえに、逆に全ての過去がフェードアウトしてゆく。
この思考の究極到達地点は、「この刹那の自分が全て」となるはずです。膨大な過去への想念の海の中で逆に濃度が濃くなってゆくのは、過去に遡って考えている今この瞬間の自分だけだからです。時間的にも空間的にも極小の自分、それが劫初より存在し永遠に存在しつづける自分の本質となります。父母だの祖母だの過去の自分だのは余分な中間です。

過去へ過去へと遡るほど、くるっとひっくり返って今現在の瞬間の自分が輝く。面白い思考ですね。ただこれは私が考えた答えで、禅の坊さんがなんと言うかはわかりません、あしからず。しかし「ポニョ」がデボン紀まで遡ることから見ても、宮崎駿さんの考えた答えも、おそらくこれに近いものでしょう。禅寺で考えるのではなく、遺伝子工学実験室で考える路線ですが。

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中間省略イベント

作中のいくつものイベントによって上記の「中間の無駄さ」が強調されています。
まず宗助の父の遺産です。家屋敷を売却したので結構な金額になっていました。叔父に運用と頼みました。叔父は家を立てて家賃収入で資産として増やそうとしました。その家があっさり火事で消失、大金を失いました。父の遺産を人に任せたのが悪かったのです。

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次に父の残した書画骨董。これも叔父に処分を頼みましたが、叔父は真田という人物に預けましたが騙し取られて帰ってきませんでした。
その叔父も死んで、わずかに残ったのが酒井抱一の屏風です。漱石はなぜか抱一が好きです。虞美人草でも出てきます。江戸琳派ですので関東人に馴染みやすいのか、誇りに思っているのか、そこのところはわかりません。宗助は道具屋に売ろうとしますが、値が安すぎるので粘ります。最終的に7円が35円まで釣り上がります。満足して売ります。宗助はお金で欲しかったマントを買います。小六のことはほったらかしです。結構エゴイストです。
ところが崖の上の家主が酒井抱一の屏風を買ったと聞きます。見せてもらうと果たして自分の売った屏風でした。買値を聞くと80円でした。中間搾取のひどさを実感します。

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一方で中間搾取ナシの体験もします。別の日に家主坂井宅にゆくと、甲斐の国、山梨から反物を売りに来ている人物に出会います。赤髪でスネを出しています。ようするに異人です。マレビトです。オニです。えらく田舎に住んでいまして、村の中で読み書きできるのはその人物のみ、だから彼が東京に行商に来ています。他の村人は織物しています。中間搾取ナシですから、すごく安いです。宗助も妻のために一反買います。奥さん喜びます。

と4つストーリーを並べて、座禅修行の最終結論の中間搾取ナシを導き出すのです。経済での中間搾取ナシと時間の中間軽視、現在尊重は別の話なんですがね。漱石の頭の中では混濁していたようです。

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冒頭集約「近」と「今」

漱石の定番、冒頭集約が本作にもあります。

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というかたちで全編を冒頭で要約することが冒頭集約です。本作の冒頭集約は逆の言葉で暗示をしています。

第一章で宗助は縁側でひなたぼっこをしています。「近来の「近」」の漢字が突然わからなくなって妻に聞きます。ゲシュタルト崩壊です。「近江の「近」」と教えられます。「今日の「今」」もわからなくなった、と宗助は言います。なにげない会話ですが本作が時間物語ということを端的に表現できています。のちの座禅の公案は「父母未生以前本来の面目」です。遠く昔を考える問題です。上手に抽象化された冒頭集約です。宗助は遠く昔にさかのぼり、その結果以前より落ち着いて充実した今現在を獲得しました。

鏡像構造

鏡像構造も漱石の定番です。

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本作は前作「それから」以上にゆるいですが、それでも中心部分はなかなかの出来です。

第十二章で御米は寝ています。前章で体調不良になり、処方してもらった薬のせいです。昏々と寝る女性像は、「ニーベルングの指環」のブリュンヒルデを連想させます。

前作「それから」は「ニーベルングの指環作品群」に含まれます。本作はその性格は薄いですが、御米の時間がここで一度小休止になる、その意味ではブリュンヒルデと共通です。眠り姫を口づけで目覚めさせるのが英雄ジークフリートさんのお仕事ですが、本作で宗助がしたことは、心配になって横に座ってお茶漬け四杯食べながら妻を見ていただけです。それでも御米は目覚めます。結果は良いですが表現が地味です。小説は娯楽なんですから、もう少し派手に書けないものでしょうか。

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第十三章では宗助が髪を切りにゆきます。実は色々大変すぎて年を越したくない、自分だけ師走に留まりたいと思っていました。床屋で白衣に包まれた自分を鏡で見ていると、この人はいったい何者だろうと思い出します。つまり御米同様、ここで宗助は一度軽く死ぬのですね。

それでも髪を切るとさっぱりします。家主の家にゆくと前述の反物屋が居ます。田舎人の格好ですがなぜか髪だけはきっちりしています。中間搾取なしで安く反物売っている甲斐の人は、もうひとりの自分なのです。

同じ第十三章では、御米の流産の件も語られます。安井から略奪した御米ですが、子供が生まれません。生まれても死産です。3回失敗してヘコんだ御米は、占いにゆきます。「罪のたたり」と言われます。安井を裏切ったからか、とがっくりきます。亭主の宗助には励まされますが、やはり気は晴れないままです。

おわかりように本作は時間物語です。冒頭集約は今現在がわからなくなる話です。中心部分は過去に引っ張られている話です。なんとか脱出したい。その後座禅をして父母未生以前にさかのぼり、充実した今現在を獲得できます。

論評の多くが、末尾の「また冬になる」を不安が残った表現と解釈しますが、こちらは季節をあらわす言葉、つまり時間表現ですから、冒頭に出てくる「近」「今」と対になっています。今現在さえも見失っていた主人公が、季節単位で大きく時間を考えられるようになっているのです。いかにもファンタジーらしく大成功なのです。「時間物語」と認識できないから解釈を大きく間違えるのでしょう。

手文庫と金時計

家主坂井宅から盗まれたのは手文庫(書類入れ)と金時計でした。手文庫は宗助の庭に落ちていたので持ってゆきます。金時計はのちほど泥棒さんが自発的に坂井に返品します。ほっとけば時間は帰ってくるようです。つまり問題は時間にあるものではなく、本人の精神ですね。

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以上は第七章の事件ですが、対称となる第十八章では若い坊さんの弟子の話が出ます。その弟子は普段は墨の行商やっています。金ができるとしばらく座禅をします。その後また行商に出ます。それをひたすら繰り返します。「この生活を循環小数のごとく繰り返して、飽く事を知らない」と書かれています。両者は無論対応します。

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前作「それから」でも文字と数字をパラレルで表現していました。

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いいカンです。しかしながら、パラレルにしているだけで特にそれ以上掘り下げれていないのも事実です。漱石は文字と貨幣と時間の関係が視界に入っているのですが、そこまでで止まっていると思います。

作中、墨を省略しようとする人も居ます。佐伯の叔父の遺児、佐伯安之助です。インクなしの印刷方法を発明します。事業化できたかどうかまでは明らかにされていません。なかなかのエンジニアです。

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本作はファンタジーかつテクノロジーに目が向いている漱石らしからぬ作品です。しかも主題は時間です。もしかしてですが、ウェルズの「タイム・マシン」を読んだのかもしれません。本作の15年前の作品です。

話を戻します。その安之助は元来船のエンジンを開発して事業化しようとしています。佐伯家の遺産をぶっっこみます。だから金がなくなって小六の学費がなくなったのです。エンジンを「鰹船に取り付ける」と表現されています。海軍拡張を暗示すると見て間違いありません。だから日本にゃ金がないんだと。

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安之助と同じ「安」の字が使われている人が、御米を宗助に略奪された「安井」です。現在坂井弟と蒙古で活動中です。坂井家は旧幕関係者ですから、ようするにはみ出した武士です。陸軍拡張を暗示すると見て間違いありません。

大陸浪人安井の原型は、「草枕」の那美さんの別れた亭主ですね。

日露戦争に勝って、朝鮮を併合して、満州、蒙古に勢力を広げようとした時代です。漱石は、「それらの人々を仏教でまとめられないか」と考えたのかもしれません。満州はマンジュ=文殊菩薩です。モンゴルもチベット仏教の勢力範囲です。それなりの国家構想ではあります。
しかしもしかして、朝鮮の仏教勢力を過大評価したのかもしれません。李朝は完全な儒教国家ですから、仏教でまとめるのは無理があります。本作の設定では、宗助のお向かいの本多さんの息子さんが「朝鮮の統監府」の役人です。そして朝鮮本多の家主は宗助と同じく崖の上の坂井です。日本と朝鮮の家主が共通、つまり漱石は日本と朝鮮の文化の差をそれほど認識していなかったようです。甘いです。

漱石は「内生論者」です。輸入ばっかりで上滑りの開化を、なんとか自発的な、内生的なものにできないか頭を絞っています。「草枕」の耳と目の一致もそういう問題意識から発生しています。一致に誘導するのは草枕でも禅寺の住職です。それを少々実践的に、国家運営レベルで考えようとしたのが本作です。しかし実践的と言ってもさほど政治経済の知識がないので、どうしても抽象的な話になるのですが。

章立てをアバウトにまとめるとこうなります。

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前半で宗助は論語を読みます。しかし否定的です。儒教ではいかんと。後半で座禅を組みます。問題が解決します。仏教でゆこうと。

ネーミング

漱石はネーミングはかなりベタです。三四郎・それから・門、合わせて前記三部作と呼ばれますが、たしかに該当する人物の名前はほぼ同じです。

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もしも第四作を作ると、人物の名前は「長宮代八」になるはずです。さすがにダサいのでやめたようですが。

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それでもって本作の登場人物も、

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相互に関連しているのがありありとわかるネーミングです。安井と坂井、安之助と安井、宗助と安之助です。漱石は「三四郎」でキャラ同士の距離を小さくする戦略を取って成功しました。本作でも同じ戦略です。

安之助は海軍、安井は陸軍、そして坂井弟は安井といっしょに活動中です。宗助の弟の小六は最終的に坂井の書生になります。この構成ですと、崖の上の家主坂井は、日本の神様という設定でよいかと思います。

ではどういう神様か。最後の方で坂井は銀婚式を祝います。坂井いわく、カエルの夫婦が石を投げられて沢山死んでいる場所がある。だから夫婦で生きているだけでめでたい。だから銀婚式は目出度い。つまり家主坂井はカエルの神様です。雨を司る神でしょう。カエルだからといってバカにしてはいけません。草木国土悉皆成仏です。捕食ヒエラルキー下の方のカエルが崖の上に住むのです。

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「それから」の代助はヘビだったのに、なぜ本作の宗助はカエルを襲わないのか、と思われるかもしれません。ご安心ください。作中漱石はヘビ宗助を歯医者に通わせています。歯の状況は悪く、完治は難しい状況です。「それから」の代助は歯並びを誇りにしていましたから、本作の設定では歯医者シーンが必要でした。用意周到です。

ここで座禅の公案思い出してください。過去にさかのぼって、ひっくりかえって現在が充実するという内容でした。つまり本作の特徴はひっくりかえっていることです。だからカエルなのか、よくわかりませんが、ともかくヘビとカエルの力関係もひっくりかえり、住んでいる位置関係もひっくりかえっています。陸軍が安井、海軍が安之助というのも、「あんたらの維持費たけーよ」という意味でしょう。高いと安いがひっくりかえっています。明治時代のファンタジーは、こういうテイストになるんですね。本人すごくファンタジックな作品書けたと思っていたのではないでしょうか。現代ではついて行けない人が多いと思いますが。

「ポニョ」の原案

「ポニョ」の下敷きは漱石の「門」です。宮崎駿の原案ではポニョはカエルだったそうで、その後設定変わって魚の子になりましたが、宮崎駿はやはり、物凄く読める人ですね。「門」の崖の上の坂井の正体がカエルと見破った上で、後継作品練り上げます。

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「門」が「ニーベルングの指環作品群」に入るかどうかは、ギリギリですね。正直私は入れたくない。前作「それから」は合格ですけど。

だから「ポニョ」の本名が「ブリュンヒルデ」というのは少しやりすぎだと思います。「ポニョキューレの騎行」シーンは見事ですが。

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もっとも御米が昏々と眠るシーンは、確かにブリュンヒルデの眠りに近い。ですからポニョも昏々と眠るのは納得できます。

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ブリュンヒルデが囚われていた炎は、ポニョを捉えていたガラス瓶ですね。石で割って救出する宗介はジークフリートの資格十分です。しかし「門」には該当ありません。宗助はとなりでお茶漬け食べてるだけです。

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ポニョが宗介の血を舐めると言葉がわかるようになる、という設定は「指環」のジークフリートがファフナーの血を舐めると鳥の言葉がわかる、という設定を引き継いでいますが、この設定も「門」にはありません。

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「指環」+「門」=「ポニョ」になりますが、「門」を「ニーベルングの指環作品群」に入れることは少々無理がありそうです。あくまで感触的な判断ですが。

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